KADOKAWA Technology Review
×
おっぱいで作る「人工母乳」
女性研究者のあくなき挑戦
Illustrations by Amrita Moreno
生物工学/医療 Insider Online限定
Startups are racing to reproduce breast milk in the lab

おっぱいで作る「人工母乳」
女性研究者のあくなき挑戦

母乳を作り出す細胞を培養して、これまでより優れた人工乳を生み出そうとしているスタートアップ企業がある。プロジェクト断念の危機に何度も瀕しながら、ビル・ゲイツ率いる投資ファンドからの資金調達に成功し、培養した細胞に母乳に似た物質を分泌させるところまで漕ぎ着けた。 by Haley Cohen Gilliland2021.06.22

2013年の夏、レイラ・ストリックランド博士はノートPCの前に座り、ある映像に見入っていた。映像では、マーク・ポストという人物が世界初となる培養肉のハンバーガーを紹介していた。

オランダのマーストリヒト大学で血管生理学の教授を務めるポストは、ピンクの平らなパテを生み出すため、ウシの幹細胞で満たされた何千枚もの組織培養プレートを使っていた。そしてウシの胎児の血清などの栄養素を混ぜ合わせ、筋細胞に分化するまで待った。そのプロセス自体も非常に興味深いものだったが、ストリックランド博士は細胞培養の別の可能性について思いを巡らせていた。「ヒトの母乳」である。

ストリックランド博士は多くの母親と同じように、2人のわが子を生後6カ月間、母乳で育てたいと思っていた。

医学界では、母乳は乳児の栄養の「黄金基準」と見なされている。母乳は消化の問題や発疹の可能性を減らすだけではない。もっとも切実な理由として、稀な病気ではあるが早産児が死亡する可能性のある壊死性腸炎も起きにくくなる。

だが、これまた多くの母親と同様に、ストリックランド博士にとって母乳育児は難しいものだった。下の子の3年前に生まれた第一子の息子は、乳首にうまく吸い付くことができなかった。そして吸い付かれると、今度は大きな痛みを感じた。息子は体重が減り始めた。彼女は毎日、乳が出るように一日中おっぱいをさすったり揉んだりしたが、息子の腹が満たされることはなく、泣き続けていた。そして、今度は娘でも同じ問題に直面していた。

ストリックランド博士は自宅の食卓でポスト教授の映像を見ながら、その手法を使って、人工牛肉の代わりに母乳を生み出す細胞を培養する可能性について考え始めた。「妊娠している女性は、胸の針生検を実施することがあります。それならば、赤ちゃんが生まれる前に、生検で得られた細胞を培養して母乳を作れるかもしれません」。当時、ストリックランドはそう興奮気味に友人にメールを送った。

ストリックランド博士はスタンフォード大学で細胞生物学の研究者として数年過ごした後、医療分野の編集者兼ライターとして働いていた。母乳を生み出す細胞を培養することは、通常の学術界よりも独立志向の強い形で研究職に戻るチャンスだった。数日後、ストリックランド博士は夫とともに貯金から5000ドルを捻出し、実験に使うために灰色の大きな細胞培養フードや顕微鏡、培養器、遠心分離機をイーベイ(eBay)で購入した。「時代遅れの、かさばる装置でした。ほとんどは1960年代の製品だったと思います」とストリックランド博士は振り返る。

プロジェクトの資金確保には長い間苦労し、アイデアを諦める寸前までいったこともある。しかし2020年5月、ストリックランド博士が起業したバイオミルク(Biomilq)は、ビル・ゲイツが率いる投資グループから350万ドルを調達した。そして今、シンガポールやニューヨークの競合企業とともに、育児用栄養の世界に革命をもたらそうとしている。その手法は、現在420億ドル規模を誇る人工乳業界で、いまだかつて見られたことのないものになるだろう。

母乳育児は古来より、流行り廃りを繰り返してきた。影響を与えたのは医学知識の発展だが、人種や社会的地位も関係している。実の母親以外に授乳を頼む「乳母」の習慣は、少なくとも古代ギリシャまでさかのぼる。南北戦争以前の米国では、白人の奴隷主がわが子に母乳を与えることを黒人女性に強制していた。そのため、黒人女性の子どもはしばしば不利益を被っていた。

1851年、現代的な哺乳瓶がフランスで初めて発明された。コルクの乳首と象牙のピンを備え、選択的に吸入口を閉じて空気の流れを調節できる精巧な道具だった。その結果、乳母は「絶滅」の危機に瀕した。その後すぐに、ドイツ人化学者のユストゥス・フォン・リービッヒが史上初めて人工乳の製品化に成功した。成分は牛乳と小麦、麦芽粉、炭酸水素カリウムで、理想的な育児用食品としての地位をすぐに確立した。

20世紀までに人工乳の利用は飛躍的に伸びたが、その大きな理由は医師や消費者への熱心な売り込みにあった。1954年にカーネーション(Carnation)が米国で出した濃縮ミルクの広告では、光り輝く母親と乳児の姿が描かれ、「カーネーションのミルクで赤ちゃんを育てている母親の8割が『お医者さんのおすすめ!』と言っています」というコピーが添えられている。その後、人工乳メーカーは、新米ママに配る用として病院に無料の調合レシピを提供し始めた。同時に、働きに出る母親が増え、継続的に母乳をあげることが難しくなっていった。母乳より優れてはいないにしても、人工乳も同じくらい安全で効率も良いという認識が広まると、母乳育児の割合は急落した。米国では1972年までに、母乳で育てられた乳児の割合は22%となり、歴史的な落ち込みを見せた。1936年から1940年に生まれた子どもでは77%だった。

現在、その割合は回復しており、母乳が乳児に最高の栄養を与えるということで医師も概ね一致している。米国疾病予防管理センター(CDC)の統計によると、米国の大部分の赤ちゃん(約84%)がいずれかの時点で母乳を飲んでいる。しかしながら、米国小児科学会や世界保健機関(WHO)が推奨する母乳のみでの6か月間の育児ができている割合は4分の1にとどまっている。

母乳をあげることは常に簡単なわけではない。ストリックランド博士が経験したように、乳をうまく吸えない赤ちゃんもいる。乳が十分に出ないこともあれば、母親にとって耐え難いほどの苦行になることもある。

さらに、新生児の母の多くは仕事も抱えている。職場での授乳や搾乳は不可能ではないにしても、難しい場合がある。そうしたことは、母親が貧困状態にあれば一層難しくなることは間違いない。企業に育児休暇が義務付けられておらず、雇用主から休暇を得られる母親もわずかしかいない米国のような国ではなおさらだ。

ストリックランド博士が研究室で母乳を作るためにまずやったことは、かなり地道な作業だった。数百万ドル、あるいは数千万ドルすることもあるヒトの乳腺細胞株を買う余裕はなかった。そのため、まずはウシの細胞から始めることにした。実験を開始するた …

こちらは有料会員限定の記事です。
有料会員になると制限なしにご利用いただけます。
有料会員にはメリットがいっぱい!
  1. 毎月120本以上更新されるオリジナル記事で、人工知能から遺伝子療法まで、先端テクノロジーの最新動向がわかる。
  2. オリジナル記事をテーマ別に再構成したPDFファイル「eムック」を毎月配信。
    重要テーマが押さえられる。
  3. 各分野のキーパーソンを招いたトークイベント、関連セミナーに優待価格でご招待。
10 Breakthrough Technologies 2024

MITテクノロジーレビューは毎年、世界に真のインパクトを与える有望なテクノロジーを探している。本誌がいま最も重要だと考える進歩を紹介しよう。

記事一覧を見る
気候テック企業15 2023

MITテクノロジーレビューの「気候テック企業15」は、温室効果ガスの排出量を大幅に削減する、あるいは地球温暖化の脅威に対処できる可能性が高い有望な「気候テック企業」の年次リストである。

記事一覧を見る
フォローしてください重要なテクノロジーとイノベーションのニュースをSNSやメールで受け取る