KADOKAWA Technology Review
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セラピーを学ぶAIが拓く、
精神医療「個別化」の道
Karolin Schnoor
人工知能(AI) Insider Online限定
AI is making better therapists

セラピーを学ぶAIが拓く、
精神医療「個別化」の道

心理療法では、適切な時期に適切な言葉をかけることが重要だ。英国のメンタルヘルス・ケアクリニックでは、セラピーのセッションで使われる言葉を人工知能(AI)で分析する、メンタルヘルス・ケアに対する新しい取り組みを進めている。将来的には、臨床医や研究者がまだその大半を解明できていない、心理療法が機能するそもそもの仕組みが明らかになるかもしれない。 by Will Douglas Heaven2022.02.08

ケビン・カウリーは、1989年4月15日に起きた多くのことを覚えている。当時17歳だったカウリーはノッティンガム・フォレスト対リバプールの準決勝を観戦するために、英国シェフィールドのヒルズボロ・サッカー・スタジアム(Hillsborough soccer stadium)へバスで向かった。美しい晴天の午後で、ファンがスタンドを埋め尽くしていた。

群衆が押し合いへし合いしているため、ポケットに入れた手を出せなかったぐらい混雑していたことを覚えている。応援しているチームの得点チャンスに観客がフェンスに殺到したとき、背後で安全柵が崩壊したすさまじい音を覚えている。

倒れて身動きが取れなくなった観客の上に、数百人が将棋倒しになった。カウリーは倒れ、その上に次々と人が積み重なり下敷きになった。気がついたときには、死んだり、死にかけたりして折り重なった群衆の重みで身動きがとれなかった。尿と汗の臭い、男たちのわめき声を覚えている。隣でもがき苦しんでいる男性と目が合い、その後、彼を踏み台にして幾重にも重なった群衆から抜け出したことを覚えている。カウリーは、その男性がその日に亡くなった94人の1人なのかどうかを、今でも知りたいと思っている。

その記憶はカウリーが成人してからも人生を苦しめ続け、30年にわたってフラッシュバックと不眠症に苦しんだ。働くことすら苦痛だったが、自分の行動が恥ずかし過ぎて、あの日のことを妻にも話せなかった。酒を飲み、最悪の記憶から目をそらした。2004年、ある医師がセラピストの研修生を紹介してくれたが役に立たなかった。数回のセッションを受けた後、通うのをやめた。

だが、2年前にインターネットを使うセラピーの広告ポスターを見かけて、試しにもう一度セラピーを受けてみることにした。担当のセラピストとテキスト・メッセージ(SMS)で会話する定期的なセッションを数十回受けた後、現在49歳のカウリーは重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)からようやく回復しつつある。「二言、三言の言葉に、人生を変える力があるのは驚きです」。英国を本拠地とするメンタルヘルス・クリニック「イエソ(Ieso)」のアンドリュー・ブラックウェル最高科学責任者(CSO)は言う。イエソはカウリーのセラピーをしている。

重要なのは、適切な時期に適切な言葉をかけることだ。イエソのブラックウェルCSOたちは、セラピーのセッションで使われる言葉を人工知能(AI)で分析する、メンタルヘルス・ケアに対する新しい取り組みを開拓している。自然言語処理(NLP)を利用して、セラピストとクライエントが交わす会話、つまり、どのような種類の発言や言葉のやり取りの、どの部分が、さまざまな障害のセラピーに最も効果的かを特定しようという着想だ。

セラピストに自分が何をしているのかについて、より深く、明解に理解させ、経験豊富なセラピストなら高水準のケアを維持できるように役立て、研修生なら能力の向上を支援することが目的だ。世界的にメンタルヘルス・ケアが不足しているおり、自動化された形態の(セラピーやセラピストの)品質管理は、クリニックがメンタルヘルス・ケア需要を満たす手助けに不可欠なものになるかもしれない。

最終的に、この取り組みによって、臨床医や研究者がまだその大半を解明できていない、心理療法が機能するそもそもの仕組みが正確に明らかになるかもしれない。セラピーの有効要因に対する新しい理解によって、医師が薬を処方するように特定のクライエントに合わせて精神療法を調整できるようになり、個別化されたメンタルヘルス・ケアへの道を開く可能性がある。

言葉の使い方

セラピーやカウンセリングの成否は、最終的にセラピストとクライエントの2人の間で交わされる言葉が鍵となる。こうした療法が現在の形式になって数十年になるにもかかわらず、クライエントにもたらす働きについては、いまだに驚くほど多くのことが分かっていない。一般的にセラピストとクライエントが良好なラポール(信頼関係)を築くことが重要とされているが、特定の症状に特定の手法を適用して成果があるのかどうかを予測するのは難しい。身体的な症状に対する治療と比較すると、メンタルヘルス・ケアの質は低いとされる。セラピーやカウンセリングといった療法が開発されて以来、メンタルヘルスの回復率は低迷しており、場合によっては悪化している。

一部のセラピストが他のセラピストよりもなぜ成果をあげられるのかという秘密を解明するために、研究者は長年にわたって会話セラピーを研究している。長年の経験と資格のあるセラピストの本能的直感に基づいて交わされる会話セラピーは、科学であると同時に芸術なのかもしれない。何に効果があるのか、なぜ効果があるのかを完全に数値化することは今まで事実上不可能だった。ユタ大学の心理療法研究者、ザック・イメル教授は、セラピー・セッションの筆記録を手作業で分析しようと試みたことを覚えている。「気が遠くなるほど時間がかかり、サンプル量が膨大で困りました。数十年にわたって分析したにもかかわらず、学んだことはあまり多くありませんでした」。

AIがその状況を変えつつある。自動翻訳などで使われる機械学習は、膨大な量の言語をすばやく分析できる。それを利用すれば、研究者はセラピストが使っている膨大な量の手つかずの情報源にアクセスできる。

研究者は、そのデータから得られる識見を利用して、長年の懸案となっているセラピー効果の向上を実現できると考えている。その結果、より多くの人が症状を改善し、健康な状態を続けられるかもしれない。

こうした未来を追いかけているのは、ブラックウェルCSOたちだけではない。米国企業のリッスン(Lyssn)も同様の技術を開発している。リッスンは、ワシントン大学の研究教授として心理学と機械学習を研究しているデビッド・アトキンス最高経営責任者(CEO)とイメル教授によって共同設立された。

イエソもリッスンも、セラピー・セッションの筆記録を使ってAIを訓練している。NLPモデルを訓練するために、数百件のセッションの筆記録に手作業で注釈をつけ、セラピストとクライエントの言葉がセッションの特定の時点で果たしている役割を強調していく。注釈をつけるのは、セッションの開始時にセラピストがクライエントに挨拶してから、クライエントの心的状態について話す部分や、その後のやり取りで、セラピストはクライエントが提起した問題に共感し、前回のセッションで紹介したスキルをクライエントが実践したかどうかを尋ねる部分だ。このような注釈づけが延々と続く。

このテクノロジーは、映画のレビューが肯定的か否定的かを見分けられる感情分析アルゴリズムや、英語と中国語の識別を学習する翻訳ツールと同じように機能する。ただし、この場合、AIは自然言語を、さまざまな発言が果たす役割を明らかにするセラピー・セッションの概要を示す、ある種のバーコードやフィンガープリントのようなものに変換する。

セッションのフィンガープリントからは、建設的なセラピーに費やされた時間と一般的な雑談に費やされた時間が分かる。こうして読み出された情報は、今後のセッションでセラピストが建設的なセラピーに集中するのに役立つ、とクリニックの約650人のセラピストを監督するイエソのスティーブン・フリーア最高臨床責任者(Chief Clinical Officer)は言う。

迫り来る危機

イエソとリッスンの双方が取り組んでいる問題は、緊急を要するものだ。冒頭のカウリーの話は、メンタルヘルス・ケアの提供における2つの大きな欠陥、セラピーを受けるまでの過程とセラピーの質の問題を浮き彫りにしている。カウリーはセラピーを受けるまでに15年も苦しみ、しかも2004年に初めて …

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