KADOKAWA Technology Review
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なぜ、空腹を感じるのか?
究極のダイエットを実現する
脳の「食欲スイッチ」の謎
Francesco Francavilla
生物工学/医療 Insider Online限定
We’ve never understood how hunger works. That might be about to change.

なぜ、空腹を感じるのか?
究極のダイエットを実現する
脳の「食欲スイッチ」の謎

人間が食欲を感じる仕組みは、長い間謎に包まれていた。しかし、脳に着目して研究を続けてきた科学者が、その謎をようやく解き明かそうとしている。解明できれば、究極の減量薬の開発も可能になるかもしれない。 by Adam Piore2024.08.28

この記事の3つのポイント
  1. ハーバード大の神経科学者らは、空腹感を制御する脳回路の解明に取り組んでいる
  2. 遺伝子工学などを駆使して視床下部室傍核から腕傍核へとつながる空腹回路を追跡
  3. 肥満治療薬の開発だけでなく、意思決定や動機づけに関する新たな洞察にも期待
summarized by Claude 3

ブラッド・ローウェルのマウスを見れば、本当の「空腹」というものを目の当たりにできるだろう。

数年前、ハーバード大学の神経科学者であるローウェル教授とマイク・クラシェス博士研究員は、食べ物に対する欲求を最大限まで引き上げる方法を発見した。視床下部にあるニューロンの束を刺激するのである。視床下部とは、人の基本的な欲求を調節する上で重要な役割を果たすと考えられている脳領域だ。

次に起こったことを収めた映像がある。始まりは穏やかだ。カメラがゆっくりとパンしながら一連のプラスチック製ケージを映し出していく。それぞれのケージの中では、餌を十分に与えられたおとなしいマウスが木くずの寝床に横たわっている。彼らの頭上には、三角形の金属格子が天井から吊り下げられ、その反対側に餌のペレットが並べられている。しかし映し出された8匹のマウスはみな、餌に興味を示そうともしない。無理もないだろう。マウスはそれぞれ、感謝祭の夕食に相当する量の食事を終えたばかりなのだ。

ところが、画面下部のタイマーに表示された時間が過ぎていくにつれ、マウスの半数が興奮し始めた。これは、食欲に関連する特定のニューロンを発火させるよう設計された化学物質が標的にたどり着いたことを示す最初の証拠だ。

まもなく、マウスたちは何かに取りつかれたようになった。何匹かは後肢で立ち上がり、届かないペレットに向けて格子越しに鼻を突き出している。壁を登ったり、格子の棒からぶら下がったり、木くずを躍起になって掘ったりしているものもいる。

「まるで正気を失っているように見えます」とローウェル教授は言う。

空腹感や満腹感を制御し、体重を調節する脳の回路に関して世界有数の専門家であるローウェル教授は、あることを主張するためにこの映像を時折引用する。「飢えた者にとって、空腹は悪魔のようである」ということだ。空腹は、脳の最も古く原始的な部分を目覚めさせる。そして望むものが手に入るまで、ほかの神経機構を乗っ取って命令を出し続けるのである。

最初はわずかな感覚に過ぎないものが、急速にらせんを描き始める。記憶中枢から引き出された強迫的な思考が意識の中に飛び込んでくる。ミートボール・サンドイッチの画像。パンの匂い。コルクのようなペレットの想像上の味。動機づけと感情を司るヒトの脳領域は、非言語的な指令で食べたいという欲求を吹き込む。それは、ほかのあらゆる感覚を凌ぐほど強力に感じられる。食べ物を手に入れる方法を考えて、前頭前皮質がフル稼働を始める(仮に交戦地帯のような危機的状況に置かれていれば、目的のためにどれだけの危険を冒すべきかを検討する)。そして感覚野と運動野に指令が下される。そうなれば、鶏を盗むか、池で魚突きを試みるか、業務用冷蔵庫を漁るか、あるいはペレットを味わおうと金属製の格子に体をぶつけるのである。

つまり、ローウェル教授はマウスの空腹ニューロンを刺激し、触媒作用によって神経活動の嵐を引き起こした。それが大脳皮質やほかの高次脳機能中枢へと広がり、目的達成を目指す一連の複雑な行動の連鎖につながったのだ(結果的に役には立たなかったが)。

ローウェル教授にとって、学ぶべきことはまだまだ多いということを痛感させられるものだった。

「確かに、『食べに行け』と脳に言わせることには成功しました。しかし、それでは大した説明になっていません。実際のところは、どのように機能するのでしょうか」。

この質問に答えるため、ローウェル教授は動機が知覚を形成する仕組みを研究している神経科学者、ハーバード大学のマーク・アンダーマン教授とチームを組んだ(アンダーマン教授は、ローウェル教授と同じくボストンのベス・イスラエル・ディーコネス・メディカル・センターで働いており、図らずもオフィスが隣同士だ)。彼らは共に、神経空腹回路の既知の部分をたどって脳の未知の部分へ踏み込もうとしている。トカゲと共通するほど原始的な領域を通って新しいつながりを体系的に追跡するために、ニューロンをひとつずつ活性化しながら研究を進めることもある。

彼らの研究は、公衆衛生の観点から大きな意義を持つものになるかもしれない。世界では19億人以上の成人が過体重であり、6億5000万人以上が肥満だ。過体重や肥満は、糖尿病、脂肪肝、心臓病、数種類のがんなどさまざまな慢性健康障害と相関がある。体重の増減に関連する回路が分かれば、過体重や肥満の人々が近年急増している要因に新たな異なる観点をもたらすかもしれない。

そしてこの研究は、新種の減量薬として話題のGLP-1受容体作動薬の背後にある謎の解明にも役立つだろう。「ウゴービ(Wegovy)」や「オゼンピック(Ozempic)」などのGLP-1受容体作動薬は、公衆衛生の分野では画期的なものとされている。肥満に効果を発揮する初めての薬剤であり、人によっては15%以上の減量が可能になるというのだ。この種の減量薬は、文化的な現象にもなっている。米国の医療機関は、2022年の最後の3カ月間で減量薬の処方箋を900万件以上も出している。しかし、この種の薬がどのように、なぜ機能するのか、正確に説明することは誰にもできない。科学者たちがいまだに、食欲の制御に関わる複雑な神経機構を解明できていないというのが理由のひとつである。

「GLP-1受容体作動薬は、より大きなシステムの一部分から見ると、良い効果、つまり満腹効果を生み出しています」とローウェル教授は言う。GLP-1受容体作動薬が登場したときに彼は驚き、そして純粋に興味を抱いた。「薬が作用する仕組みを理解する上で最も重要な要素のひとつとして、どの仕組みが働いているのかを見極める必要があります。そして、それこそが私たちの取り組んでいることなのです」。

しかし、ローウェル教授とアンダーマン教授の最終的な目標は、空腹の仕組みを単に解明することだけではない。はるかに高いところに目標を置いているのだ。彼らは、食べることへの本能的欲求が高次脳構造を乗っ取ることを可能にする、とらえどころのないニューロンの束を探している。高次脳構造は、人の動機づけ、意思決定、記憶、意識的思考や行動に関与している。彼らは、これらのニューロンを特定することで、単純な基本的衝動(この場合は、エネルギーの貯蔵量が不足し始めていて補充が必要であるという身体からのシグナル)がどのように脳内を伝搬し、意識的体験を支配して、はるかに複雑な行動(大抵は食糧を得るために考え抜かれた複雑な一連の行動)へ変えるのかを研究することが可能になると考えている。

過去数年にわたり、ローウェル教授はこの探究に没頭している。その様子から、彼の指導を受ける大学院生たちは、研究対象になっている難解な脳細胞の束を「聖杯」ニューロンと名付けたほどである。

陳腐な科学的比喩のように聞こえるかもしれないが、控えめなローウェル教授には相応しい表現だ。彼が追い求めているのは、人間の意志の核心に迫るものだ。生あるうちに答えを得られるとは彼自身想像もしていない。見つけられたとしたら、数十年にわたる仕事の集大成となるだろう。

空腹感の謎

ブラッド・ローウェル教授は、「自分はベス・イスラエル・ディーコネス・メディカルセンターで唯一の地元民だ」という冗談を好んで口にする。彼は、現在研究の拠点としているオフィスに隣接する病院で生まれた。そこから約1.6キロメートル北にあるボックスフォードの町で育ち、車で2〜3時間の距離にあるマサチューセッツ大学アマースト校に通った。

1970年代後半に学部生としてマサチューセッツ大学アマースト校に入学したローウェル教授は、間もなくリチャード・ゴールドの生理学的心理学研究室への参加を認められた。ゴールドは、食欲の調節に関与する神経機構の特定に取り組んでいた先駆的な神経科学者だった。

ゴールドが重点的に研究したのは視床下部だった。これは脳の深部にある原始的な組織で、進化による変化がほとんど見られない。その役割は、体温、血圧、食糧や水の必要性、その他の基本的欲求などの重要な機能を監視して調整し、身体の恒常性を保つことであると考えられている。

ゴールドは、視床下部内にあるごく小さな部位、およそ5万個のニューロンから成る視床下部室傍核(PVH)が食欲制御役を担っていると推測した。2024年の基準からすれば、当時研究に使われたのは、現在の基準から見ると「石器時代」のツールだった。視床下部室傍核から出て外のニューロンにつながっている神経突起の束を切断するのに「引き込み式ワイヤーナイフ」を使ったとローウェル教授が語っているほどだ。しかし、その処置は効果的だった。ローウェル教授が処置を施した後、麻酔から目覚めたマウスは空腹にとらわれていた。そしてすぐに肥満になった。

この経験は忘れがたい印象を残した。当時19歳の逞しいサッカー好きだったローウェル教授は、過体重の人は誰でも、ただの「怠け者」なのだと思い込んでいた。ところが、それだけでは説明のつかない理由がありそうだとこの実験が示したのである。また、この実験はローウェル教授が科学者を志す決意にもつながった。

しかし、空腹感と満腹感を制御するために脳がいかに正確に機能するのかを調べる研究は、ある種の袋小路に入り込んでいた。

「ゴールドとほかいくつかの研究室は、食べるものの制御に必要な場所として視床下部室傍核に目星を付けました」とローウェル教授は解説する。「ですが、それ以上詳しく調べるためのツールを持っていませんでした」。

視床下部室傍核を構成する5万 …

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