向精神薬が25%減、
介護・医療現場を変える
「痛み」のAIスキャン
スマートフォンを30センチの距離にかざし、3秒待つ。画面に表示される0〜42のスコアが、言葉で伝えられない患者の痛みを可視化する。顔の微細な動きを読み取るAIアプリが、認知症ケアや新生児医療の現場を静かに変え始めた。「血圧のように痛みを測る」時代が始まっている。 by Deena Mousa2025.10.25
- この記事の3つのポイント
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- AI顔面スキャンアプリ「PainChek」が認知症患者の痛み評価で向精神薬処方を25%削減する効果を実証
- 従来の主観的痛み評価は文化的バイアスや医療格差を生み、声なき患者の痛みが見過ごされてきた
- 生体信号と表情解析を組み合わせた客観的痛み測定技術の普及には精度向上と偏見除去が急務
シェリル・ベアードは、イングランド北部で23か所の認知症ケア施設を運営するオーチャード・ケア・ホームズ(Orchard Care Homes)において、言葉でコミュニケーションがうまく取れない患者の痛みを評価するための観察手法である「アビー痛みスケール」を看護師が記入する様子を長年観察してきた。当時、施設の品質管理責任者を務めていた元看護師のベアードはその痛みの評価を、「痛みの兆候に真剣に配慮することなく、チェックボックスに印を付けるだけの作業だった」と表現している。
結果として、興奮状態にある入居者は行動上の問題があるものと見なされがちであった。アビー痛みスケールでは、痛みと他の苦痛や不調との区別がうまくつかないことがあるためだ。そして、痛み自体は治療されないまま、向精神薬の鎮静剤が処方されることも多かった。
状況が変わったのは2021年1月、オーチャード・ケア・ホームズが「PainChek(ペインチェック)」の試験運用を開始してからだ。PainChekは、入居者の顔をスキャンして微細な筋肉の動きを検知し、人工知能(AI)を用いて痛みの予測スコアを出力するスマホアプリである。試験導入した部門では数週間のうちに処方薬の数が減り、廊下の雰囲気も落ち着いたものになった。「使いやすさ、正確さ、そして従来の疼痛スケールでは見過ごされていたであろう痛みの特定など、その効果はすぐに実感できました」とベアードは振り返る。
このようなテクノロジーを活用した診断は、より大きな潮流を示している。介護施設、新生児集中治療室、集中治療室では、医学的に最も主観的なバイタルサインである痛みを、カメラやセンサーを使って血圧と同じくらい確実に計測できるものに変えようと研究者たちが競い合っている。こうした取り組みの成果の1つとして誕生したのが、PainChekである。このアプリはすでに3大陸で規制当局の認可を受け、1000万件を超える疼痛評価を記録している。他のスタートアップ企業も同様に、医療現場への進出を図っている。
痛みの評価方法はようやく変わり始めたのかもしれない。しかし、アルゴリズムが私たちの苦痛を測定することで、痛みに対する理解や治療方法も変わるのだろうか。
痛みの特定の側面についてはすでに、科学的に解明されている。たとえば、つま先をぶつけたとき、侵害受容器と呼ばれる微小な警報装置が、伝達速度の速い「特急」経路を通じて電気信号を脊髄に送り、最初の鋭い痛みを伝える。その後より伝達速度の遅い経路を通じて、しつこく残る鈍い痛みが伝えられることがわかっている。脊髄に届いた信号は、「ゲート」と呼ばれる神経のスイッチボードに到達する。このゲートに、打撲部をさするような「優しい接触」の刺激が加わったり、パニックや冷静さといった感情に基づく脳からの指令が加わったりすると、意識に達する前の段階で痛みのメッセージが弱められたり、強められたりする可能性がある。
ゲートは、他の神経活動や脳からの指令によって、痛みの信号を通過させたり遮断したりすることができる。このゲートを通過した信号だけが、脳の感覚マップへと送られ、損傷箇所の特定を助ける。一方で、その他の信号は感情をつかさどる中枢へと送られ、痛みの感じ方を調整する。数ミリ秒のうちに、脳の感情中枢は再び脊髄に指令を送り返し、体内で生成される鎮痛物質を放出したり、痛みの警報を強化したりする。言い換えれば、痛みとは単なる損傷や感覚の反映ではなく、身体と脳との間でリアルタイムに交渉されるプロセスなのである。
しかし、その交渉がどのように行われるのかについては、今もなお多くの謎が残されている。たとえば、科学者は、ある人がごく普通のけがから数年間続く過敏症へと移行してしまう原因を予測できない。急性疼痛から慢性疼痛への分子的な変化については、いまだにほとんど解明されていない。失った手足に痛みを感じる「幻肢痛」も同様に謎が多い。手足の切断手術を受けた患者の約3分の2が、すでに存在しない部位に強い痛みを感じるにもかかわらず、「皮質の再構築」「末梢神経腫」「身体図式の不一致」などの対立する理論は、なぜある患者は苦しみ、他の患者は何も感じないのかを説明しきれていない。
痛みを定量化しようという本格的な試みが始まったのは、1921年のことである。患者は、目盛りのない10センチメートルの線の上に自身の痛みの程度を点で示し、医師はその点までの長さをミリメートル単位で測定することで、主観的な痛みの体験を0から100の尺度に変換した。1975年には、心理学者ロナルド・メルザックが開発した「マクギル疼痛質問票」が登場し、「焼けるような」「刺すような」「ズキズキするような」など78の形容詞を用いて、痛みの強さだけでなく性質も評価できるようになった。近年では、病院で用いられる評価法は最終的に0から10までの数値評価スケールに落ち着いている。
とはいえ、痛みはあくまでも極めて主観的な体験である。脳による反応という形のフィードバックは脊髄に指令を送り返すことができ、これにより、期待や感情によって同じ怪我の痛みの感じ方が変わる可能性がある。ある実験では、鎮痛効果があると信じて偽のクリームを塗られた被験者は、それが偽薬だと知らされていた被験者と比べて、同じ刺激に対して痛みを22%少なく感じると報告した。そして、彼らの脳を用いたfMRI(機能的磁気共鳴画像)解析では、痛みを処理する脳の領域の活動が実際に低下していることが示され、これはつまり、彼らが本当に痛みを弱く感じていたことを意味する。
さらに、痛みの知覚は多くの外的要因に …
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