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「ネトフリ」対モディ政権、
インド映画の魂めぐる闘い
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Inside Netflix's Indian Gambit

「ネトフリ」対モディ政権、
インド映画の魂めぐる闘い

映画やテレビへの検閲が厳しいインドにおいて、検閲対象から長らく除外されてきたストリーミング配信プラットフォームは、インドの映画製作者たちに新たな自由をもたらした。だが、モディ政権やヒンドゥー・ナショナリズムの脅威にさらされている現在、芸術的に解放された時代は短命に終わるかもしれない。 by Sonia Faleiro2021.04.20

パンデミックが発生する前のある午後、筆者は、ネットフリックスの新作ドラマを撮影中のヒンディー映画監督、アヌラーグ・カシャップに会うため、西ロンドンの閉鎖された病院内の撮影現場を訪れた。カシャップが撮影していたのは古い設備が放置されたままの産科病棟だった。最近ムンバイから到着した撮影スタッフたちが、残されたままのベビーベッドやベビーストレッチャーを避けながら作業していた。助監督がヒンディー語と英語で大声で指示を出している間、ブルーの患者用ガウンを着てベッドの上で仰向けに横たわっていた主演女優にカシャップは話しかけた。奥二重の目と高い頬骨を持つ元モデルの主演女優は、体位を変えずにうなずいた。それから、カシャップはそのまま目立たないようにモニターの後ろへ移動した。

2003年にカシャップが初めて監督したヒンディー映画 「パーンチ(Paanch)」 は、暴力描写が過激すぎるということで禁止された。以来、カシャップはインドで熱狂的ファンを獲得してきた。カシャップはこれまで、数十本のボリウッド映画で脚本、監督、製作を担当してきた。ネットフリックスは2016年にインドで配信サービスを開始すると、正直者の警察官を罠にかけるムンバイの裏社会のドンを描いた初のオリジナルドラマシリーズ 『聖なるゲーム(原題:Sacred Games)』 の共同監督としてカシャップを雇った。第1シーズンの配信を開始するとすぐに、ネットフリックスは大ヒット作を手に入れたことを確信した。

『聖なるゲーム』は、現在カリフォルニア州バークレーに住む人気のインド人小説家、ヴィクラム・A.チャンドラの小説が原作で、メインキャストにはトップクラスのヒンディー映画俳優たちを揃えた。当時、ストリーミング配信サービスはインドの中央映画認証委員会の規制対象ではなかったため、カシャップはボリウッドで制限されていた表現の枠を超越することができた。登場人物は自然に交流した。悪態をつき、政治について語り、セックスをした。ボリウッドお決まりの派手な歌とダンスのシーンに飽き飽きしていた視聴者にとって、『聖なるゲーム』はスリリングだった。この作品によって、インドにおけるストリーミング配信は初めて、ユーチューブのようなお気軽な娯楽提供源や世界の番組を見るための媒体以上のものとして認められた。

ネットフリックスはとても満足してボーナスをくれました、とカシャップは語った。「だから新しい靴を買えるんですよ!」とカシャップは笑いながら、タバコの先で新品のハイトップシューズを指した。インドはよく世界最大の民主主義国と言われるが、西洋のような表現の自由は未だかつて存在したことがない。カシャップにとって、ネットフリックスは富だけでなく、それよりも重要な自由への希望だ。

この希望は、カシャップや他の映画製作者だけでなく、インドに住む14億人の人々にとっても重要なものだ。十分な資金をもって現代の問題に取り組むことができる映画やテレビ番組は、国の文化に欠かせない。ネットフリックスは、ナレンドラ・モディ首相の保守的なヒンドゥー・ナショナリズムの世界観に対する脅威となる。モディ政権は最近、カシャップのような人々を検閲し、威嚇するキャンペーンを再開した。インドでのネットフリックスの台頭は、テクノロジー自体が目的ではなく、芸術と人間の繁栄手段としてテクノロジーが重要である理由を示している。

インド映画の検閲は、英国が植民地支配の観点から、ビクトリア王朝時代の取り澄ました社会規範を保護しようと試みた1918年に始まった。ジャーナリストのウデイ・バティアによると、「不必要に女性の下着を見せること」と「インドに関して、英国人またはインド人の将校が醜悪な視点で描かれる題材」の両方が禁止された。サムズウォー・バーミックによると、1920年にはインドに複数の地域検閲委員会が存在し、そのメンバーは「デリケートな問題」と「禁じられたシーン」に注意するように指示された。1940年代までにキスシーンは映画からほぼ姿を消した。インド独立はこの検閲の性質を変えたが、検閲は廃止されなかった。マスコミと映画への検閲は続き、インディラ・ガンディー首相が市民の自由を21か月間凍結した1975年から1977年までの期間、最も厳しく実行された。1977年にガンディーが選挙で敗れた後、比較的開放的な期間が続いた。

1996年にインド出身カナダ人のディーパ・メータ監督がレズビアンの関係を描いた映画 『炎の二人(原題:「Fire」)』 に対してヒンドゥー・ナショナリストたちが異議を唱え、状況は再び変化した。同映画は検閲委員会によって承認されたが、暴徒は公共財産を破損し、人々を打ちのめし、火炎瓶を投げつけた。映画館の所有者はほとんどの上映をキャンセルした。その後、ボリウッド映画はアクション、ロマンス、そしていくらかのお涙シーンを加えた台本に固執し、すべて音楽とダンスのパフォーマンスでまとめ上げられた。検閲委員会はキスに焦点を合わせていたので、映画製作者は観客を引き付ける別の方法を見つけ出した。「なぜボリウッド映画には下品さ、歌、ダンス、腰を突き出す動作、バスルームの空想、そして夢のシーンがたくさんあると思いますか?」と、ある監督が2002年に問いかけた。「単純なキスが許されないからです」。検閲委員会は譲歩し、保守的な活動家グループも譲歩し、誰もが納得する方式が生まれた。時折例外はあったが、世界最大の映画産業は型にはまることで落ち着いた。

ナレンドラ・モディは、所属するインド人民党が圧勝した2014年に首相に就任した。国際的な報道機関の多くは当初、慎重な楽観論でモディを迎えた。ニューヨーク・タイムズ紙の編集委員は当時、モディは選挙の勝利で「経済を活性化し、インドが世界と関わる方法を形作る」機会を得たと伝えた。ネットフリックスやその他のストリーミング配信サービスは、モディ政権の試金石となった。ストリーミング配信コンテンツは、テレビ放送や映画とは異なり古くから続く検閲体制の対象ではなく、十分な資金を持っていた。しばらくの間、テクノロジーの変化によってもたらされた芸術ルネサンスは可能であるように思われた。

2015年に、米国でのネットフリックスの利益は前年比50%減となった。アマゾンプライム・ビデオやフールー(Hulu)などのライバルに加入者を奪われ、米国と西欧の市場は飽和状態に近づいていた。そこで、ネットフリックスを率いるリード・ヘイスティングスCEO(最高経営責任者)はアジアに目を向けた。中国は広大で比較的裕福だったが、大部分において外資には閉鎖的だった。日本は裕福で中国よりも開放的だったが、規模は比較的小さかった。ネットフリックスは日本にオフィスを開設したが、メリットは限られていた。インドは中国のように広大だったが、インフラ不足だった。ブロードバンドのコストは高く、スピードは遅く、スマホ所有率は人口の15%未満だった。取引全体の約98%に現金が使われており、ネットフリックスの視聴には国際クレジットカードが必要だった。翌年1月、ネットフリックスはインドに進出したが、そのことに気づいた人はほとんどいなかった。

8カ月後の2016年9月、インドで最も裕福な億万長者のムケシュ・アンバニが、ジオ(Jio)という新しい通信会社を立ち上げた。ジオは、わずか150ルピー(2ドル)のSIMカードを購入するだけで、期間限定で無料の4G高速データ通信を提供した。そして、価格競争が勃発した。プロバイダー全体での1ギガバイトあたりのデータ単価は、世界最安の26セント相当にまで急落し、新しいインターネットユーザーが大量に出現した。モバイルデータ通信の月間平均使用量はユーザー1人あたり約10ギガバイトまで増加し、米国とほぼ同水準になった。2020年12月の時点で、モバイルインターネットのユーザー数は7億人を超えた。

安価で超高速のデータ通信が実現し、人々がインターネットに慣れ親しんできた状況で、インドはネットフ …

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