南極大陸 孤立の終焉、
スターリンクがもたらす
新たな「つながり」
第7の大陸、南極は常に荒涼とした、世界と断絶した場所だった。イーロン・マスク率いるスターリンクの衛星インターネットはそれを変えようとしている。 by Allegra Rosenberg2024.04.24
「ここは地球上で最も訪問者の少ない場所の1つで、私はその扉を開く機会がありました」。ニュージーランドの南極スコット基地の建設専門隊員であるマティ・ジョーダンが、2023年10月、インスタグラムとティックトック(TikTok)に投稿した映像のキャプションにこう書いた。
映像の中でジョーダン隊員は、1907年に英国のアーネスト・シャクルトンが率いた探検隊の隊員たちが暮らし、働いていた場所を指し示しながら、誰もいない、音が響き渡る小屋の中を視聴者に案内している。そこでは靴下が干されたままになっており、食料が整然と積み上げられ、冷気で自然に保存されている。
家族や友人に南極での生活の様子を伝えるためにティックトック動画を作り始めたジョーダン隊員は、自分が話題の中心になっていることに気づいた。チャンネルのフォロワーが100万人を超えているのだ。シャクルトンの小屋の動画だけでも、世界中から何百万回の再生回数を記録している。これはまさに奇跡のようなことだ。ごく最近まで、南極の基地で生活し、働いていた人たちは、外の世界とこれほど簡単にコミュニケーションを取ることはできなかったからだ。
南極は長い間、孤立した世界だった。19世紀から20世紀初頭にかけて本格的な探検が始まった頃、探検家たちは何年にもわたって故郷から切り離され、実際の郵便物を運ぶために文明社会との間を往復する船に頼っていた。探検家たちは完全に孤独で、数千キロメートルも離れた場所で生活する唯一の人間であった。
このような状況は、心理的にも物理的にも困難が伴った。手持ちの物資だけでは探検家たちが実施できる科学実験は限られていたし、助けが必要になっても(必要になることはかなり頻繁にあった)、SOSを送ることはできなかった。また、何が起こっているのかを世界に知らせることもできなかった。これは重要なことだった。多くの探検家は資金を得るために、宣伝に依存していたからだ。
1911年、オーストラリアのダグラス・モーソンが率いる探検隊が、大陸に初めてアンテナを持ち込み、無線信号の送受信を試みた。しかし、モーソンはチームの最初のシーズンに数通のメッセージを送信することはできたが、返信を受け取ることはできなかった。そのため、送信が成功したかどうかを知ることができなかった。
オーストラリアの真南にある南極海岸のデニソン岬の基地で、時速70キロメートルの風が何カ月も毎日毎晩吹き続けた。探検隊は2度目の冬にようやくマスト(アンテナの支柱)を上げることに成功したが、別の問題に直面した。6カ月間の暗闇の中で生活していたことが原因で無線オペレーターが精神的な問題を抱え、仕事ができなくなった。そして、探検隊は再び孤立してしまった。
モーソンの遠征から数十年が経ち、初の恒久的な基地が設置されてからというもの、南極の通信環境は着実に改善され続けてきたものの、氷上での生活は常にある種の断絶を特徴としてきた。自宅での生活が常時接続や即時更新、ストリーミング、アルゴリズムへの依存度を増していくにつれて、南極での生活は、良くも悪くも、あらゆるデジタルの喧騒から解放されるものと考えられてきた。
しかし、その長年の不均衡に終止符が打たれようとしている。イーロン・マスク率いるスペースX(SpaceX)が開発した、高速ブロードバンド・インターネット衛星コンステレーション「スターリンク(Starlink)」にやってきて、氷の向こうですでに享受されている接続性をついに南極大陸にもたらしたのだ。
初期の南極探検からの報告は非常に希少で、大変な人気を博した。新聞社は、モーソンやシャクルトンのような探検家が帰港した瞬間のニュースを伝えるために、高額の報酬を支払った。現在では、南極基地やフィールド・キャンプに駐在する人々や、増え続ける観光客からのビデオや投稿、フェイスタイムでの通話が一般的なものになっている。
世界の中で最も「接続」が希薄な地域の1つであった7番目の大陸は、1世紀以上経った今、突然、他の大陸との距離がぐっと縮まったと感じられるようになった。ここで定期的に生活し、働く人々にとって、これは長年待ち望んでいた成果だ。
一般大衆を味方につける
人々は常に南極での生活に関するニュースに飢えていた。初期の頃は、南極の風を乗り越える勇敢な活動の定期的なアップデートは、マスコミを引き寄せるには完璧な手段だった。これは、20世紀初頭の大規模な民間探検に必要な資金を確保する鍵であった。
カリスマ的な自己宣伝家であった米国海軍のリチャード・E・バード提督ほど、探検とメディアの注目との密接な関係を体現した人物はいない。同提督はロス棚氷に連なる基地を「リトル・アメリカ」と名付け、米国の若者を代表するボーイスカウトを連れて行った。同提督は典型的な著名探検家であり、その大胆な活躍で常にニュースの見出しを飾っていた。
1929年のバード提督の最初の民間資金による探検は、飛行機による南極点到達を目指した。同提督は無線信号を使い、モールス信号でリトル・アメリカ基地からサンフランシスコとロングアイランドの沿岸局にメッセージを直接送信し、頻繁に無線電信でマスコミに進捗状況を更新した。探検隊に同行したニューヨーク・タイムズ紙の記者は無線電信を通じてほぼ毎日記事を送稿し、一般大衆は同提督の一挙手一投足を追いかけ、1929年11月29日の歴史的な南極点上空飛行でクライマックスを飾った。
バード提督の次の探検が実施された1933年までに、テクノロジーは十分に進歩し、南極に初の音声放送局を設置することが可能になった。この放送局は短波ラジオの長距離通信機能を活用し、公式任務報告を送信すると同時に探検隊員からのメッセージも受信していた。探検隊のジャーナリスト、チャールズ・マーフィーが企画したバラエティ番組は、毎週AM局で一般向けに生放送された。
この革新的な番組を通じて、自宅で聴いていた視聴者は自分たちも探検に参加しているような気分になることができた。『ザ・シャドウ(The Shadow)』や『ローン・レンジャー(The Lone Ranger)』といった当時の人気ラジオ番組のように、『バード提督との冒険(Adventures with Admiral Byrd)』はアクション満載の連続番組で、勇敢な探検家たち自身が直接、探検の進捗状況を伝えるのが目玉だった。科学者たちは気象報告やトークに加え、歌や寸劇も披露した。
番組の一番人気は、米国人がリトル・アメリカ基地の男たちと生放送で会話できるコーナーだった。同基地の郵便局長は結婚21周年の妻に語りかけ、探検隊の個性的なコックであるカルボーネは、ニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルのシェフと会話を交わした。
「現実の冒険の生き生きとした物語は、通常の放送チャンネルで聴ける架空のス …
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