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「飲んでません」無罪に、「微生物のせい」はどこまで通用する?
Stephanie Arnett/MIT Technology Review | Getty, Adobe Stock
Your gut microbes might encourage criminal behavior

「飲んでません」無罪に、「微生物のせい」はどこまで通用する?

酒気帯び運転の疑いをかけられていたある男性の体内では、微生物が勝手にアルコールを製造していた。微生物が私たちの行動にどう影響するかをより深く理解することで、法的手続きや犯罪防止につなげる研究が進んでいる。 by Jessica Hamzelou2025.05.14

この記事の3つのポイント
  1. 自動醸造症候群の男性が酒気帯び運転で無罪となった事例がある
  2. 微生物が人間の行動に影響を与えている可能性が指摘されている
  3. 微生物と犯罪行為の関係性の解明は法的手続きや更生に役立つ可能性がある
summarized by Claude 3

数年前、30代のベルギー人男性が運転する車が街灯に突っ込んだ。それも2回だ。現地当局は、彼の血中アルコール濃度が法定基準値の4倍であったことを突き止めた。2~3年の間に、この男性は酒気帯び運転で3回捕まった。しかし彼は、その3回とも飲酒はしていないと言い張った。

彼の言い分は真実だったのだ。後に医師は、この男性が自動醸造症候群であると診断した。これは、体内でアルコールの醸造が勝手に進んでしまう珍しい疾患である。男性の体内に生息する微生物が、食事に含まれる炭水化物を発酵させてエタノールを生成していたのだ。昨年、男性にかかっていた酒気帯び運転の嫌疑は晴れた

このケースは、他のいくつかの科学的研究と合わせて、「私たちの行動のどこまでを微生物のせいにできるのか?」という、微生物学、神経科学、そして法律に関わる興味深い問題を問いかけている。

私たちの誰もが、小さなバクテリア、古細菌(バクテリアに似たもの)、真菌、そしてウイルスまでもが構成する膨大なコミュニティを体中に宿している。その最大の集合体は腸内に存在し、数兆個もの微生物が生息している。私たちの体には、人体を構成する細胞よりも多くの微生物細胞が存在しているのだ。ある意味、私たちは人間というより微生物に近いと言えるだろう。

微生物学者たちは、これらすべての微生物の働きを解明しようと奮闘している。食べ物の分解を助ける微生物もいるようだ。また、何らかの形で私たちが健康を維持する上で重要な化学物質を作り出す微生物もいる。しかし、微生物同士が相互に作用する方法が無数にあることもあり、その全体像は非常に複雑である。

一方で、微生物は人間の神経系とも相互作用する。ニューロンの働きに影響を与える化合物を生成することができるのだ。また、免疫系の機能にも影響を与え、それが脳に連鎖反応をもたらすこともある。さらに、微生物は迷走神経を介して脳とコミュニケーションを取ることができるようだ。

微生物が私たちの脳に影響を与えることができるのであれば、犯罪行為などの行動の一部も説明できるのではないだろうか? 少なくとも理論上はそうであると考える微生物学者もいる。「私たちが思っている以上に、微生物は私たちを支配しています」と、カナダのゲルフ大学の微生物学者であるエマ・アレン=ヴァーコー教授は言う。

研究者たちは、微生物学を刑法に応用することを「リーガローム(legalome)」と名付けることにした。微生物が私たちの行動にどう影響するかをより深く理解することで、法的手続きに影響が及ぶだけでなく、犯罪防止や更生への取り組みにもつながる可能性があると、西オーストラリア大学の小児科医で免疫学者のスーザン・プレスコット教授らのグループは主張する。

「自分が自動醸造症候群であることに気づいていない人にとって、微生物は、犯罪行為とレッテルを貼られかねないような行為をするように糸で操っている人形師のようなものだと言えます」とプレスコット教授は話す。

自動醸造症候群はかなり分かりやすい例(これまでに少なくとも2人の無罪判決につながっている)だが、脳と微生物の間の他の関係はより複雑である可能性が高い。行動に影響を与えると思われる微生物について、少しだけ分かっていることがある。猫の体内で増殖し、猫の糞便を介して他の動物に広がる、トキソプラズマという寄生虫だ。

この寄生虫は、げっ歯類の行動を変化させ、捕食されやすくすることで最もよく知られている。感染すると、ネズミは猫への恐怖心を永久に失ってしまうようだ。ヒトに関する研究は、まだ結論には程遠いものの、この寄生虫への感染で、性格が変わり、攻撃的に、そして衝動的になることとの関連を示す研究結果もある

「微生物が脳に影響を与え、犯罪で裁かれている人の法的立場に影響を及ぼす可能性があることが分かっています。これはほんの一例です」とアレン=ヴァーコー教授は話す。「被告人は『私の微生物がそうさせた』と言うかもしれません。そして、私はその言葉を信じるかもしれません」。

もっともよく研究されている生き物のひとつであるマウスを見ると、腸内微生物と行動を結びつける証拠がまだある。ある研究では、糞便移植、つまりある動物の糞便を別の動物の腸内に移植した。糞便には腸内細菌が豊富に含まれているため、糞便移植は腸内微生物叢の入れ替えにある程度役立つ(人間にも同様の手法が用いられており、持続性クロストリジオイデス・ディフィシル感染症の治療に極めて効果的であるようだ)。

2013年、カナダのマクマスター大学の科学者たちは、臆病なことで知られるマウスと、どちらかといえば群れる傾向のあるマウスの2種類の系統間で糞便移植をしてみた。この腸内微生物の入れ替わりによって、それぞれの行動も入れ替わったようだ。臆病なマウスはより群れやすくなり、群れやすいマウスはより臆病になった。

以来、微生物学者たちはこの研究を、少なくともマウスにおいては、腸内微生物の変化で行動が変わることを最も明確に示した研究のひとつと位置づけている。「しかし問題は、腸内微生物が人間をどの程度支配しているのか、そして人間的な部分がその支配をどの程度克服できるのかということです」とアレン=ヴァーコー教授は語る。「これは本当に難しい質問です」。

結局のところ、私たちの腸内微生物叢は比較的安定しているとはいえ、変化する食事、運動習慣、環境、さらには一緒に暮らす人たちさえも、体表や体内に生息する微生物コミュニティに影響する可能性がある。そして、コミュニティがどのように変化し、行動に影響を与えるかは、人によって微妙に異なるかもしれない。特定の微生物と犯罪行動とを正確に関連付けることは、不可能ではないにせよ、極めて難しいだろう。

「誰かの微生物叢を調べて、『ほら、あなたはXという微生物を持っているから、連続殺人犯だ』と言えるようになるとは思えません」とアレン=ヴァーコー教授は言う。

いずれにせよ、プレスコット教授は、微生物学とメタボロミクス(体内の代謝物質を網羅的に分析・解析する研究分野)の進歩が、微生物やそれらが作り出す化学物質、そして犯罪行為との関係をより深く理解するとともに、望ましくない行為の治療を可能にする助けとなると期待している。

そして、「微生物による介入が、治療プログラムの一部となる時代が来るかもしれません」と語った。

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ジェシカ・ヘンゼロー [Jessica Hamzelou]米国版 生物医学担当上級記者
生物医学と生物工学を担当する上級記者。MITテクノロジーレビュー入社以前は、ニューサイエンティスト(New Scientist)誌で健康・医療科学担当記者を務めた。
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