KADOKAWA Technology Review
×
無料の会員登録で、記事閲覧数が増えます
くじ引き化する先端がん治療
The Cancer Lottery

くじ引き化する先端がん治療

がん治療の最前線では、腫瘍の遺伝子変異を発見し、その変異を標的とする医薬品を使う。しかし全員に効果が出るわけではなく、その理由を探ることが研究者の課題だ。 by Stephen S. Hall2016.12.13

30年間続く乳がんの闘病生活で、医師は尽くせる手は全て尽くしてくれた。カルメン・テイシドールはそう思っていた。放射線治療とホルモン療法もそれぞれ複数回受けた。25年前に一度だけ試した化学療法は、QOLが下がったのでそれ以来は避けている。手術も何度も受けた。あるとき、麻酔から覚めた直後に突然意識を失った。よい兆候であるはずがない。1985年夏、医師が左乳房に大きな腫瘍を発見し、乳房切除を検討していることをカルメンが初めて知った。

ニューヨークの集合住宅の床を見下ろしながら、カルメンは「本当に恐ろしかったです」と当時を振り返る。がんを告知されるのによいタイミングなどあるはずもないが、カルメンにとっては、アーティストとしての人生が軌道に乗りつつある時期の出来事だった。ロックフェラー大学に自作の等身大の彫像が2体据えつけられ、さらにハーレム病院の壁画もちょうど完成した頃だった。カルメンは現在70歳、細身の女性で、白髪交じりの髪を若々しいポニーテールにまとめている。何度もがんが再発し、外科用メスを初め、あらゆる医療器具を頼った。最近は分子に頼ってがんを治療した。

2013年秋、テイシドールはほとんど気づかなかったが、ニューヨークのスローン・ケタリング記念がんセンターの医師はテイシドールの腫瘍の小片を採取し、がん細胞をDNAシークエンスで解析した。腫瘍をDNAシークエンスで解析するがん研究センターは増えており、スローン・ケタリング記念がんセンターの医師も、悪性変異を引き起こす遺伝子変異を特定するためにDNAシークエンスを使った。こうして見つかる変異には、次世代医薬品が効力を発揮する場合がある。

結果として、テイシドールの腫瘍には医学的に興味深い変異が複数起きていたことがわかった。しかしその腫瘍に起きた変異を標的にする医薬品は当時存在しないことも同時にわかった。それでも2013年秋の時点では大問題にはならなかった。何度も再発を繰り返してはいたが、テイシドールのがんは進行している様子がなかったからだ。ところが事態は一変する。

「2年前、とてもひどい形でがんが再発しました」とテイシドールはいう。後頭部から腫瘍が浮き出ているのが手触りでわかった上、顎にも腫瘍が根を張っていた。腫瘍は首にも複数、さらに検査で骨や骨盤にもがんが発見された。テイシドールに長くつきまとってきたがんが、新たに不吉な動きを見せていたのだ。ニューヨークのスローン・ケタリング記念がんセンターの腫瘍学者は化学療法を勧めたが、テイシドールは断った。「何もせずにいるか、でなければ化学療法を受ける。これ以外に選択肢がないと考えると、非常に気落ちしました」とテイシドールは振り返る。

しかし進行したのはがんだけではない。科学も進歩していた。テイシドールの腫瘍に起きていた変異のひとつが、スローン・ケタリングなど複数の施設で試験中の実験的薬剤の標的と一致したのだ。がんの適確医療の価値をめぐる学術的議論は激しさを増している(ある科学評論家は「適確腫瘍学という幻想」と表現した)が、テイシドールは臨床試験に参加し、2015年の夏の終わりから服用を始めた。それから数週間のうちに腫瘍が縮小してきたことを実感。後で検査すると実際に縮小していることを確認した。

テイシドールの例は目覚ましい成果といえる。しかし適確腫瘍学については医師や科学者、保険会社、今年がんの診断を受けるはずの160万人以上のアメリカ人が頭を悩ませている。腫瘍のDNAシーケンシングから恩恵を受けられる患者はどれほどいるのか? DNAシーケンシングは非常に高価だが、誰が利用できるのだろうか? 恩恵を受ける患者の数は小数だが、患者のために社会はどれほど費用を負担するのだろうか?

標的を見つける

ヒトゲノム計画以来の科学者の夢は、個人の分子情報を正確に取得し、疾患の診断と治療に活用することだ。構想そのものはシンプルで、ある病気に罹患した人のDNA配列がわかれば、病気の原因となる変異が判明し、その変異を標的にした医薬品を処方できるはずだ。しかし残念ながら、人体は現状の医学知識が及ばないほど複雑だった。研究者の希望的観測では、少数のありふれた遺伝子変異で心臓病や高血圧、糖尿病、統合失調症など多くの病気の原因を説明できるはずだったが、多くの場合、実際にはそうはいかない。

ただ、がん治療に絞れば事情が変わってくる。大抵の腫瘍には、医薬品の標的候補を絞り込む手がかりになるような遺伝子変異が起きているからだ。「適確腫瘍学」の手法が広く知られるようになる以前から、標的療法はがん診療の主流になっていた。1998年、食品医薬品局(FDA)はある乳がん治療薬を承認。ある種の乳がんで発生する腫瘍細胞には、細胞表面にあるHER-2受容体というタンパク質が過活動性を示すような変異が起きる。承認された医薬品は、その変異が起きている乳がん患者を対象にしていた。「ハーセプチン」と名づけられた医薬品は最初の分子標的薬であり、2001年にはグリベック(ある種の白血病で起こる変異を標的とする)、2011年にはゼルボラフ(黒色腫で起きる変異を標的とする)と、2つのブロックバスター薬(以前より効果が高く、大きな売上が期待できる薬のこと)が続いて発売された。

これらの医薬品が成功したことで、ある希望が生まれた。DNAシーケンシングが比較的安価になり利用しやすくなることで、あらゆる腫瘍のゲノムを調査し、腫瘍に起きる特定の変異にピンポイントで医薬品を作用させるための手がかりを得られるかもしれない、という希望だ。これこそ適確腫瘍学の始まりのアイデアだ。つまり医師が腫瘍を生検し、DNA配列を分析し、発生した変異を特定できれば、承認済みの薬が効果を発揮するような変異が見つかるだろう、というわけだ。従来は「乳がん」や「皮膚がん」のように発生した部位でがんを区別していたが、今後はがん細胞で変異した遺伝子が、がんを特徴づける基本的な要素になるだろう。

非常に魅力的な話だ。しかし、全てのがんには遺伝子的な弱点があると信じた研究者が発見したのは、がん細胞に起こる変異にはあまりに複雑 …

こちらは会員限定の記事です。
無料登録すると1カ月10本までご利用いただけます。
こちらは有料会員限定の記事です。
有料会員になると制限なしにご利用いただけます。
ザ・デイリー重要なテクノロジーとイノベーションのニュースを平日毎日お届けします。
公式アカウント