ロンドン下水からポリオウイルス、ブースター接種始まる
ロンドンの下水からポリオウイルスが検出されたことを受けて、子どもを対象にしたポリオワクチンのブースター接種が実施されている。英国では野生型ポリオウイルスは撲滅されたはずだが、一体、何が起こっているのだろうか。 by Jessica Hamzelou2022.09.12
木曜日の午後。職場にいるはずの時間だ。しかし私は、かかりつけ医のクリニックの小さな荒れた裏庭で、よちよち歩きの娘を追いかけ回していた。そこには、私のほかにも15人ぐらいの親がおり、皆、同じ理由でクリニックに来ていた。幼い子どもたちにポリオのワクチンを接種するためである。「今日は大体200人の子どもに接種するんですよ」と、看護師は私に話してくれた。
今、庭に積まれている石ころを指差して「あれはうんち!」と叫んでいる私の最も小さい娘は、今年10月で2歳になる。娘はすでに、3回のポリオワクチンの接種を済ませており、3歳4カ月になったときに再度接種する予定だった。だが、ロンドンの北部と北東部の下水から、ポリオウイルスが検出された。私たちが住んでいる地域だ。そのため、娘を含めた市内の何十万人もの子どもたちを対象に、 ブースター接種(追加接種)が実施されている。対象年齢は1歳から9歳だ。
ポリオウイルスがロンドンの下水から検出されたのは、今回が初めてではない。しかし、今回はポリオの感染が広がっている可能性を示す兆候がある。英国では1984年を最後に、ポリオの診断例はない。しかし、米国では今年7月、ニューヨーク州ロックランド郡の20歳の男性が、ポリオによる麻痺を発症した。これは、米国で2013年以来初めてのポリオの診断例だった。一体何が起こっているのだろうか。そして、ロンドンで実施されているようなブースター接種の取り組みには効果があるのだろうか。
ポリオウイルスは、極めて感染力が強い。通常の感染経路は、ウイルスに汚染された食品または水を口にすること、もしくは濃厚接触だ。ポリオウイルスは、体内に侵入すると、腸に移動し、そこで増殖して腸炎を引き起こすことがある。
多くの人の場合は、腸炎だけで済む。症例のうち、90%までは軽い症状が出るのみであると世界保健機関(WHO)は発表している。しかし、一部の症例では、ポリオウイルスは神経系を攻撃し、四肢の麻痺、または、さらに稀ではあるものの、呼吸に必要な筋肉の麻痺を引き起こすことがある。そうなってしまうと、ポリオ感染で命を落とす可能性さえある。また、重症化しても多くの人は回復するが、ある程度の麻痺が一生残ってしまう可能性がある。
1950年代と1960年代にワクチンが導入されて以降、2カ国を除いて、野生型のポリオウイルスは撲滅された。しかし、アフガニスタンとパキスタンでは、いまだにポリオウイルスの流行が続いている。ただしこれらの国でも、ワクチン接種の取り組みが進められている。
小さなウイルスの工場
英国健康安全保障庁(UK Health Security Agency)は、ロンドンでのポリオウイルスの感染の広がりの状況を緊急に調査していると述べている。これまでに発見されたサンプルの遺伝子配列の分析から、今回のポリオウイルスは、ある型のポリオワクチンに使われているポリオウイルスととても似た株であることが分かっている。
現在用いられている2種類のワクチンのうち、ワクチンによるポリオ発症の危険性があるのは1種類のみだ。その危険があるのは、経口投与するポリオワクチン(生ワクチン)だ。弱毒化されているとはいえ、感染力のあるポリオウイルスが含まれているからだ。このポリオウイルスは、腸に到達すると限られた回数のみ増殖し、強い免疫反応を引き起こすことができる。そのため、投与された人はその後の感染から防御される。このウイルスは、ワクチンを投与された人の便からも排出される。
しかし、周知の通り、ウイルスは変異を起こすことがある。極めて稀なことだが、弱毒化したウイルスが変異を起こし、症状の出るタイプのポリオウイルスになってしまうことがある。そのため、このワクチンを投与された人は、免疫系が弱い場合、非常に稀にポリオを発症してしまうことがある。そして、ポリオウイルスは便から排出されるので、他の人にも感染が広まってしまう危険がある。仮に、ワクチンを投与された人が発症しなくても、ワクチンを受けていない人の間で集団感染が起こる可能性があるのだ。英国リーズ大学のウイルス学者であるニコラ・ストーンハウス教授によると、経口型のワクチンを投与された人のほとんどは、ウイルスの排出は数日で終わるという。しかし、体内に残ったウイルスをすぐには除去できない人もおり、その場合は、排出が数年に及ぶことがあるとのことだ。
そうした場合には、ポリオウイルスは体内で変異する機会がさらに増え、変異しながら排出され続けていくことになる。ストーンハウス教授は、「こうした人々の体は、小さなウイルス製造工場になってしまうのです」と言う。
注射型のワクチン(不活化ワクチン)の場合は、このようなことにはならない。注射ワクチンに含まれるポリオウイルスは不活性化されており、全く増殖できないからだ。そのため、多くの国は注射型のポリオワクチンに移行している。例えば英国は2004年に、経口型のポリオワクチンから注射型のポリオワクチンに移行した。注射型のワクチンは、4回または5回に分けて接種される。初回の接種は生後2カ月の時だ。
どうしてこのような状況になってしまったのだろうか。
そもそも、どうしてポリオウイルスがロンドンの下水に存在しているのだろうか。ストーンハウス教授は、感染伝播の起点となったのは、おそらく最近外国で経口型のポリオワクチン投与を受けた子どもだろうと言う。「その子どもは全く体調に問題がなく、もう今はポリオワクチンによるウイルスの増殖が終わっている可能性もあります。しかし、その子どもが他の誰かにウイルスをうつし、その人がまた他の誰かにうつしてしまった可能性があります」。このポリオウイルスは、ロンドンでごく限られた人数の人の間で感染が広がったようだ。しかし、具体的に何人の間で感染が広がったのかはわかっていない。
ロンドンで、と書いたのは、今回のポリオウイルスが見つかったのがロンドンだからだ。ストーンハウス教授によると、ロンドンの数カ所、そしてスコットランドの1カ所で、定期的に下水の検査が実施され、さまざまなウイルスが存在しないかが確認されているという。しかし、多くのウイルス学者は、今回のポリオウイルスは英国でより広範囲に広がっており、英国以外にも感染が広がっている可能性もあるという。単に、検査が実施されていないから明るみに出ていないというのだ。
なぜ、今、こうした事態になっているのだろうか。ストーンハウス教授は、突き詰めれば「アンラッキー」だったということになると言う。こうした感染の広がりは過去にも起こっていて、単に気づいていなかったという可能性も考えられる。だからといって、気を緩めていいというわけではない。「ポリオウイルスは非常に感染力が強いので、どんな形であれ流行の兆候が見られるのはとても懸念すべきことです」と同教授は言う。
では、具体的にはどれほど心配する必要があるのだろうか。大人も重症化する可能性があるが、多くの場合は軽症で済む。それに、子どもの頃にワクチンを受けていれば、その防御効果はまだ続いているはずだ。私は、子どもの頃に角砂糖に染み込ませたワクチンを投与されたことに感謝している。
ポリオやその合併症のリスクが最も高いのは、5歳未満の子どもたちだ。そのため、子どもには遅れることなく確実にワクチンの定期接種を受けさせることが重要だ。私の娘はすでに抗体ができているはずだ。娘の年齢の子どもに推奨されている3回の接種をすでに終えているからだ。
子どもは、大人よりポリオウイルスに感染する確率やポリオウイルスを拡散してしまう確率が高い。注射型のワクチン接種を受けていても、こうした危険がある。英国の種痘及び予防接種に関する合同委員会(JCVI:UK’s Joint Committee on Vaccination and Immunisation)の声明では、論文発表前のエビデンスではあるが、妊婦が妊娠中に百日咳ワクチンを接種していると、赤ちゃんの1回目のワクチン接種での免疫反応が下がってしまう危険があると紹介している。つまり、生まれた直後の赤ちゃんにおいては、ポリオワクチンは十分な防御効果を発揮していない可能性があるということが示されている。それも1つの理由となって、私の娘のようにすでにポリオワクチンを接種している子どもたちも、今またポリオワクチンの接種の対象となっている。ストーンハウス教授は、ポリオワクチンは非常に安全なため、「すでにワクチン接種を完了していても、もう1回接種を受けて何の問題もありません」と言う。
ポリオを治すことはできないが、予防することはできる。だから私は、娘の身支度をして、よちよち歩きの子どもでも食べられるビスケットを準備し、ココメロンの動画(米国の幼児向け番組)をすぐにみられるように用意して、太陽の眩しい木曜日の午後に近所のかかりつけ医のクリニックまで連れて行ったのだ。
私の長女は、まだブースター接種の対象となっていない。過去1年間に入学前の接種(3歳4カ月で実施)を済ませた子どもたちは、今回のワクチン接種の対象ではないのだ。しかし、数カ月すれば、長女もブースター接種を受けられるようになる。その頃には、ブースター接種を受けずに済むよう、流行が終わっていることを願おう。
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- ジェシカ・ヘンゼロー [Jessica Hamzelou]米国版 生物医学担当上級記者
- 生物医学と生物工学を担当する上級記者。MITテクノロジーレビュー入社以前は、ニューサイエンティスト(New Scientist)誌で健康・医療科学担当記者を務めた。