KADOKAWA Technology Review
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人はどこまで深く潜れるのか
水深300メートルに挑む
ダイバーたちの物語
SIMON MITCHELL
カルチャー Insider Online限定
Meet the divers trying to figure out how deep humans can go

人はどこまで深く潜れるのか
水深300メートルに挑む
ダイバーたちの物語

水素を呼吸ガスに使用することで、人類がこれまで到達できなかった深さへの潜水が可能になるかもしれない。ダイバーたちは水素を使った実験でその可能性を探っている。 by Samantha Schuyler2024.05.21

世界有数の深い水中洞窟に潜ったリチャード“ハリー”ハリスは、深度230メートルまで潜ったとき、そのもう少し先に落差15メートルの崖があり、そこを潜降すれば前人未到の場所へ行けることを知っていた。

その深度230メートルにたどり着くまでには、2機のヘリコプター、3週間をかけた試験ダイビング、2トンの器材、そして予想外の技術的問題を克服するための多大な努力が必要だった。しかし、その瞬間、ハリスは目の前にぽっかりと口を開けている広大な未知の暗闇に魅了されていた。

ハリスは目の前に広がる暗闇をじっと見つめながら「あとほんの少しだけ先へ進めるかもしれない」といういつもの衝動に駆られた。しかし、その衝動を抑え、数メートル右側に浮かんでいるダイビング・パートナーのクレイグ・チャレンに目を向けた。2人とも、何年も前から危険な未知の洞窟に潜り続けいる。2018年にタイの洞窟に閉じ込められた地元サッカーチームの救助に貢献したスキルを持つ数少ないダイバーでもあった。2人は極度の危険を承知しており、お互いのこともよく知っていた。ゴーグルや呼吸装置のマウスピース越しでも、顔の周りに4本の太いホースがマンモスの牙のように巻き付いている状態でも、ハリスにはチャレンが自分と同じように感じていることが分かった。2人とも、目の前に広がる暗闇に突き進みたくてうずうずしていた。

しかし、ハリスの合図で2人は引き返した。今回の目的は3年前に2人が到達した水深245メートルを超えることではなかったし、308メートルという洞窟潜水の深度記録を更新することでもなかった。310メートルをも超える深度への潜水を可能にする鍵、水素を呼吸ガスに使う方法をテストをするためだった。

人間が生身で耐えられる水圧を大幅に上回る水圧に耐えるにはどうすれば良いのか。この問題は100年以上前から存在していた。世界中の海軍部隊や海洋石油企業が、権力や利益を得るために長らく取り組んできた問題だ。1970年代から80年代にかけて、研究は一般市民の間にも浸透し始め、人々は自らの好奇心を満たすためにその限界を試し始めた。

フロリダ州ライブオークの高校数学教師だったシェック・エクスリーも、そうした1人だった。エクスリーは、軍のダイバーや職業ダイバーの能力の限界をも超えることがある記録破りのダイビングで、ダイビング界の国際的なアイコンとなっていた。10代の頃からノースフロリダの水中洞窟に潜り続けていたエクスリーは1972年、23歳のときに世界で初めて1000本の洞窟ダイビングを達成する。そして洞窟を探検するにつれ、さらに深く潜りたいと思うようになった。1966年にフロリダ州のクリスタル・リバーで初めて洞窟に潜って以来、エクスリーは洞窟ダイビングの虜になっていた。「私はその洞窟に何となく迷い込みました。目が慣れてきた後、その先の暗闇を覗き込みながら、もう少し先まで泳いだのです」。エクスリーは1992年にダイビング専門誌のアクア・コープス(aquaCORPS)誌に語っている。「以来ずっと、私はあの暗闇を覗き込み続けているのかもしれません」。

水深40メートル付近で、私たちが空気と呼ぶ混合ガス(窒素78%、酸素21%、微量ガス1%)を吸うと、不活性ガスの麻酔作用である「不活性ガス酔い」が引き起こされる。それが誘発する酩酊状態にちなんで、「マティーニの法則」とも呼ばれる。もう少し深い地点では酸素は有毒になる。米国と英国の海軍は長年にわたり、ダイバーのタンク内の酸素と窒素をヘリウムで希釈してこの2つの問題に対処してきたが、それを知る部外者はほとんどいなかった。1981年にドイツの洞窟ダイバー、ヨッヘン・ハーゼンマイヤーがヘリウム混合ガスを使用して深度143メートルに到達した後、エクスリーもヘリウム混合ガスを使用し始めた。そのわずか数年前にフロリダ州で2人のダイバーがヘリウム混合ガスを試して死亡したことを知っていたにもかかわらず、だ。

水深40メートル超に潜水するダイバーは通常、一定のガス混合比率を使用しない。代わりに、窒素、酸素、ヘリウムの混合ガスを、場所、水温、不活性ガス酔いに対する神経学的耐性、その他多くの変数に応じて変更しながら、潜降と浮上を繰り返す。さまざまな混合ガスとその呼吸に費やす時間を示した「減圧表」は、このプロセスの正確なロードマップを提供する。減圧表は欠かせない。あまりに急に浮上すると、炭酸飲料のボトルのふたを開けた時に泡が吹き出すのと同じように、ダイバーの血液や組織に蓄積されたガスが放出され、痛みを伴い、衰弱することも多い「潜水病」の症状が生じる。減圧表がなければ、深いところからの浮上はあまりにも危険だ。しかし、減圧表を作成するには、高度なテクノロジーと、一般人には入手できないアーカイブ・データが必要だった。

エクスリーは、商業ダイビングの仕事をしている友人を説得して減圧表のサンプルを提供してもらい、それを使ってコンピューター上ですべてを計算し、水深121メートル以上の数値を推定した。1987年にはその情報に従い、ヘリウムを使ってメキシコのナシミエント・マンテで深度200メートルの壁を破ることに成功した。24分間の潜降で、減圧のために11時間半も水中に留まることを余儀なくされた。その間、エクスリーは自分が危険なほど弱っていくのを感じた。血糖値が下がり、手足が冷たくなり、露出していた両手と顔はふやけてしわしわになり、皮膚が荒れて、剥がれ落ち始めた。「その時はもっと深く潜ることもできたと感じました」。エクスリーはその年のインディプス誌(InDepth magazine)にこう語っている。「しかし、減圧の限界に達していることは分かっていました」。

エクスリーは1988年、生理学者のビル・ハミルトン博士が作成したさらに正確度の高い減圧表を使って水深237メートルに達し、自身の記録を更新した。ダイバーの間では「ガスの王子様」として知られる同博士は、水深200メートルを超える減圧に関する初期研究に携わっていた。

ハミルトン博士は、あらゆるパラメーターに対して調整できる極めて正確な減圧表を作成するコンピューター・プログラムの開発を支援し、それを世界中の商業ダイビング会社や海軍のために作成した。「それらを通じて、ハミルトン博士は驚くべき量のデータを手に入れました」と語るのは、初期のリブリーザー(吐き出された空気を二酸化炭素を除去して再利用する呼吸装置の一種)を製造・販売した航空宇宙技術者で洞窟ダイバーのビル・ストーンだ。「ハミルトン博士はそのデータすべてを処理し、ダイバーに負担を及ぼすことなくどこで減圧プロセスをスピードアップできるのかが分かる確率モデルを開発しました」。80年代、同博士は職業ダイバーでも軍事ダイバーでもない一般ダイバーのために減圧表をカスタム作成するという前代未聞の行動に出た。そしてダイビング界から永遠に愛されるようになった。

しかし、エクスリーは1994年に、最大水深332メートルのメキシコの陥没穴「エル・サカトン」の底への到達を試み、亡くなった。エクスリーは深度270メートルまで到達していた。考えられる死因は高圧神経症候群(HPNS)で、これはダイバーが深度150メートル以上の高圧下で急激に潜降したときに引き起こされる、制御不能な震えを伴う神経学的疾患だ。ヘリウムと酸素の混合ガスに窒素を加えれば、窒素酔いの効果でその症状を和らげることができるかもしれない。しかし、そのような深い場所では、窒素を増やすとガスの密度が高くなるため呼吸が難しくなり、窒素酔いが原因で衰弱する可能性がある。

それでもダイバーたちは、高圧神経症候群の症状に耐えながら、エクスリーの記録を超えて250メートル、そして300メートルの深さへと突き進んだ。だが、そのような深度では、ヘリウムは人体には重すぎて処理できなくなる。「深く潜るにつれ、10メートルごとに圧力が1気圧ずつ上昇するので、水深250メートルでは26気圧になります」とハリスのダイビングパートナーであるチャレンは言う。「ガスを肺に出入りさせるのが身体的に難しくなります」。この問題を軽減するには、ダイバーはヘリウムよりも軽い気体で呼吸する必要がある。

「呼吸に使えるヘリウムより軽い気体は1つしかありません。水素です。それ以外ありません」。

ベテランのダイバーであり、インディプス誌の編集長でもあるマイケル・メンドゥーノは、元米海軍実験潜水部隊科学部長のジョン・クラークと協力して参加者を集めた。同編 …

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