スーパーシューズ革命
マラソン王国の夢を支える
テクノロジーの功罪
パリ・オリンピックが間もなく始まる。長距離王国と言われるケニアのランナーたちは、高価なスーパーシューズがもたらすイノベーションの衝撃と向き合っている。 by Jonathan W. Rosen2024.07.10
- この記事の3つのポイント
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- ナイキのヴェイパーフライ以降のスーパーシューズは陸上競技を一変させた
- スーパーシューズは軽量・高反発の素材を使用して走行効率を高めている
- マラソン王国・ケニアのランナーの経済的成功とも深く結びついている
ケニアのモイ大学エルドレット・タウン・キャンパスの陸上トラックは、チャンピオンを輩出しそうな施設には見えない。粘土と砂利という質素な混合地面で、標準的な400メートルよりも10メートル長い。ランナーたちはスタート地点とゴール地点の目印として教室の椅子を置いている。だが、世界一の長距離王国ケニアを支えるアスリートに会いたいなら、これ以上ないくらいうってつけの場所だ。
今年1月の朝、オリンピックのメダリストや主要マラソン大会の優勝者を含む100人近いアスリートたちがここに集結し、「スピードワーク」に精を出した。高強度のインターバル走だが、トップクラスのランナーには造作もない。トラックには才能豊かな選手たちがひしめきあっていて、最注目株をうっかり見落としそうになる。青緑色のシャツを着て、厚いソール(靴底)のナイキのシューズを履いた、1人の痩身のランナーだ。わずか1年あまりで、ケルヴィン・キプタムはほぼ無名の状態から、一躍世界的スターにのし上がった。マラソン史上最高記録のトップ7のうち3つを叩き出し、2023年10月にシカゴで男子公式世界記録の2時間0分35秒を樹立したのだ。この日、キプタムはロッテルダムでの次のレースまで3カ月を切っていた。彼はそこで、42.195キロメートルを2時間未満で走り切るという、前人未到の領域に挑むはずだった。
ファンはシカゴでのキプタムの偉業に度肝を抜かれた。だが、彼の勝利を後押ししたシューズについては、誰もが称賛したわけではない。2016年、ナイキは「ヴェイパーフライ(Vaporfly)」を発表した。アスリートの走行効率を高める(すなわちより速く走れる)、このシューズが起こしたパラダイムシフト以降、陸上競技の世界はハイテクシューズが競技にもたらす影響をめぐって、自らの意義を問い直す必要に迫られている。ヴェイパーフライは始まりにすぎなかった。いまや主要スポーツ・ブランドのほとんどが、いくつものバージョンの「スーパーシューズ」を展開している。そこには、軽量性と反発性を備えた発泡素材に、剛性を高めるカーボンファイバー・プレートを組み合わせた技術が採り入れられている。同様のコンセプトに基づく「スーパースパイク」は、すでに陸上競技で広く利用されている。これに伴い、パフォーマンスは飛躍的に向上した。陸上競技の国際競技連盟「ワールド・アスレティックス(WA)」によると、2020年以降、いわゆる先進フットウェア技術を採り入れたシューズを着用したランナーは、5000メートルからマラソンまでのすべての長距離陸上競技において世界新記録を塗り替えた。これほどの記録ラッシュは、陸上競技の現代史において類を見ないものだ。
中でも驚異的な記録更新が相次いでいるのがマラソンだ。2019年、公式には記録されないエキシビション大会で、ケニアのエリウド・キプチョゲは42.195キロメートルを驚異の1時間59分40秒で走り切った。2023年9月、エチオピアのティギスト・アッセファは、ベルリンで女子の世界記録を2分以上も更新する、2時間11分53秒のタイムで優勝した。このとき彼女が使用した、アディダスの「アディゼロ・アディオス・プロ・エヴォ1(Adidas Adizero Adios Pro Evo 1)」は、一度きりの着用を前提に設計されたシューズだ。この2週間後に男子世界記録を更新したキプタムは、やや重いものの反発性に優れたナイキの「アルファフライ3(Alphafly 3)」を履いた。素人目には、白いソールのこのシューズは、まるで月面を歩くために設計されたように見える。シカゴのストリートよりも、SF映画のセットのほうが似合いそうだ。
これを進歩の証と見なす人もいる。世界記録を狙うような競技ランニングは、世界の多くの地域においてそれほど広く関心を持たれているわけではない。だが、相次ぐ記録更新ラッシュは興奮を巻き起こしている。また、ケニアのトップアスリートやコーチが口々に語るように、こうしたシューズの恩恵は記録だけにとどまらない。何よりも重要なのは、身体の消耗を最小限に抑え、ハードな練習やレースからの短期間での回復が可能になることだ。
だが、シューズによる競技の変化があまりに速すぎると主張する人もいる。新記録と過去の記録を公平に比較するのが難しくなっていることに加え、フットウェアの絶え間ないイノベーションを背景に、どのブランドのシューズがもっとも優れているのかをめぐって、議論が続いている。ギアに注目が集まりすぎて選手の能力がないがしろにされている、という批判もある。また、実験環境での研究では、生体力学的な特徴により、一部のランナーは他のランナーよりもテクノロジーの恩恵を多く受けることが示唆されている。南アフリカのスポーツ科学者で、スーパーシューズ批判の急先鋒であるロス・タッカー博士は、こうした個人差により「疑念のつきまとうシューズの効果を抜きにして、個々のアスリートの間でパフォーマンスを比較する」ことが事実上不可能になっていると主張する。
キプタムの成功のどこまでが彼の才能、トレーニング、情熱、タフな精神力によるもので、どれだけナイキのテクノロジーが彼の身体反応に寄与したのかを推し量るのは難しい。そして悲しいことに、記録を提供してくれたキプタムはもういない。事実上ケニアの陸上競技の中心地となっている、人口数十万人のエルドレットの町で筆者が彼の姿を見てから数週間後、キプタムとコーチのジルヴェ・ハキジマナは、トレーニングの拠点としていた近隣の町へ向かう途中の深夜、交通事故で命を落としたのだ。
キプタム急死のショックの只中にあるケニア陸上界に、シューズのことを考える余裕はない。それでも、彼の劇的な活躍を受け、シューズの効果への注目が高まったのは事実だ。シューズ技術革命は全世界のランナーに影響を与えているが、ケニアはそれがもっとも顕著な場所の1つだ。同国では、陸上は単なるスポーツではなく、貧困生活から脱出するための手段でもある。この点で、最新ハイテクシューズは功罪相半ばする。すでに実績十分で企業スポンサーがついている選手たちが成績を伸ばす一方、まだブレイクを待ち望んでいる選手たちにとっては参入障壁になっている。ここで紹介したもっとも安価なモデルでさえ価格は100ドルを超える。ほとんどが恵まれない家庭の生まれである若者たちにとって、気軽に買える値段ではない。
ケニアのアスリートのほとんどは、初心者であれ、数十万ドルのシューズ契約を結ぶ大物であれ、もはや引き返すことはできないと現実を受け入れている。もっとも生身に近いスポーツでさえ、科学的イノベーションと無縁ではいられないのだ。それでも、最新シューズは陸上競技をさまざまな形で変えつつあり、トレーニングやレースに新たな変数を持ち込み、アスリート間の格差を広げ、パフォーマンスの可能性をめぐる大衆の想像さえも変貌させている。 そして、アフリカの一角を占める小さな国が陸上競技の中心地となり、走ることが多くの若者たちに希望をもたらしてきたという、スポーツ界でも屈指の数奇な物語に、テクノロジー主導の新章が書き加えられているのだ。
「飛ぶ」ための設計
スーパーシューズは、ランナーが長距離を走るために慎重に最適化されている。
ボートのような外観のスーパーシューズは、アスリートがランニングにおける体力の消耗を軽減し、速く走り、長距離レースの負担に耐えるのを助けるために設計されたさまざまな機能が備わっている。
最も重要な特徴は、ソールの一部を構成する、(多くは独自の)発泡素材だ。足の衝撃を吸収し、足が地面に着いた際にそのエネルギーをランナーに戻す反発力を持つ。一部のシューズでは、ナイキのアルファフライ3のオレンジ色のエアバッグのように、追加の反発力を提供するものもある。
反発性だけでは大きな利点にならない。今日の発泡素材は非常に柔らかく厚いため(WAは競技において最大40ミリメートルまで許可)、追加のサポートがなければ足が非常に不安定になる。シューズの形状を安定させるため、メーカーは通常、発泡素材の層の間に挟むカーボンファイバー・プレートやロッドなど、剛性のある部品を追加する。
これらの剛性のある部分と発泡素材は、極薄のメッシュ・アッパー(メッシュ素材で作られたシューズの上部部分)との組み合わせで、より超軽量のシューズになる。2023年に発売されたアディダスのアディゼロ・アディオス・プロ・エヴォ1は、男性のサイズ9(26.5〜27センチメートル)でわずか139グラムの重さだ。軽量なシューズは、コースの各区間で消費されるエネルギーを減少させ、ランナーが同じペースでより少ない体力で走れるようにしている。
飛躍的なステップ
走行パフォーマンスへのシューズの影響を理解するために、人体を車にたとえて考えてみよう。マラソンのような長距離競技において、選手は3つの身体的要因の制約を受ける。第1のパラメーターは、最大VO2だ。これは、身体が吸収可能な酸素の最大量のことで、エンジンの馬力のようなものだと考えるといい。ランナーの有酸素能力の上限を表す。第2のパラメーターは、乳酸性しきい値だ。これは、血中の乳酸の蓄積速度が代謝速度を上回る点のことで、車のダッシュボードにあるタコメーターの赤い目盛のようなものだ。疲労で倒れることなく、最大VO2にどこまで近づけるかを表している。第3のパラメーターは、ランニングエコノミー(走行効率)だ。これは、ランナーがエネルギーを消費する速度のことであり、ガソリンの燃費に似ている。軽量で空気抵抗が少ないクーペは、図体の大きなSUVと比べ、同じスピードで移動した場合に燃料の消費量が少ない。しなやかに効率よく走るマラソンランナーにも同じことが言える。
シューズが影響を与えるのは、最後の走行効率の部分で、とりわけ重量が物を言う。ストライドの途中で脚が空間を移動する際、足の先端に加わる重量は、重心に近い位置に加わる重量よりもエネルギーコストが高くなる。柔らかく、機械的エネルギーをよく蓄え、かつ弾性率が高く、より多くのエネルギーを返すソールは、エネルギーの大幅な節約につながる。また、プレートなどの補強材を使用したシューズは足の筋肉の出力を抑え、走行効率を向上させることが研究で分かっている。
長年、シューズメーカーにとっての …
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