遺伝子編集薬で初の個別化医療、希少疾患の治療先例に
米国の研究チームが、乳児を対象とした遺伝子編集治療で効果を上げていると発表した。この事例は、新しいタイプの遺伝子編集の有望性と、それを極めて稀な遺伝性疾患の治療に用いることの課題を浮き彫りにしている。 by Antonio Regalado2025.05.19
- この記事の3つのポイント
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- 乳児を対象に遺伝子編集治療薬を投与し致命的な代謝疾患の治療を試みた
- 治療薬は45人以上の専門家がボランティアで協力し、わずか7カ月足らずで開発された
- 遺伝子編集治療の費用対効果や適用範囲の課題を浮き彫りにしたケースとなった
致命的な代謝疾患を抱える乳児の治療のために、医師たちは7カ月足らずで特注の遺伝子編集治療薬を開発し、使用した。
乳児のDNAを書き換えるというこの迅速な試みは、遺伝子編集が一個人の治療のためにカスタマイズされた初の例だという。研究成果は、ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(New England Journal of Medicine)誌に掲載された。
治療を受けた乳児のカイル・“KJ”・マルドゥーン・ジュニア(KJ)ちゃんは、特に珍しい遺伝子変異によって引き起こされる代謝疾患を患っている。
研究チームによれば、この遺伝子変異の修正に用いた手法は、新たな遺伝子編集技術の高い精度を示しているという。
「これは医療の未来であると言っても過言ではないと思います」。治療薬を開発したペンシルベニア大学の遺伝子編集の専門家、キラン・ムスヌル博士は語る。「私の願いは、遺伝子の変異によって早逝する希少疾患患者がいなくなることです。なぜなら、私たちがその変異を修正できるようになるからです」。
このプロジェクトはまた、一部の専門家が「遺伝子編集技術における深刻な問題」と見なしている状況を浮き彫りにしている。つまり、たとえ技術的には何千もの遺伝性疾患を治療可能でも、それらの多くが極めて稀なため、企業が治療法開発のコストを回収できない可能性があるのだ。
KJちゃんに施された治療は、細胞内のDNAの1文字を修正するよう設計されたものであった。
「現実的には、この薬が再び使われることはおそらくないでしょう」。フィラデルフィア小児病院で小児代謝疾患を専門とし、KJちゃんの治療を主導したレベッカ・アーレンス=ニクラス医師は語る。
この取り組みには45人以上の科学者や医師に加え、複数のバイオテクノロジー企業がボランティアで協力した。ムスヌル博士は、費やされた時間と労力を正確に見積もることはできないと述べている。
最終的に、このような特注の遺伝子編集治療の費用は、肝臓移植の費用と同程度、すなわち生涯の医療費や薬剤費を除いて約80万ドルになる可能性があるとムスヌル博士は指摘する。
研究チームが使用したのは、「一塩基編集(base editing)」と呼ばれる、CRISPR(クリスパー)技術の新バージョン。DNAの特定の位置にある1塩基を置き換えることができる技術だ。従来のCRISPRは、遺伝子を削除するために用いられるのが一般的で、機能回復のために書き換える目的では使用されてこなかった。
研究チームは、治療対象の患者を探していた際にKJちゃんのことを知ったという。KJちゃんは昨年8月に誕生し、その後医師によってぐったりした様子が指摘された。検査の結果、アンモニアが体内に蓄積する代謝障害が判明した。多くの場合、肝臓移植がなければ命にかかわる疾患である。
KJちゃんの場合、遺伝子配列の解析によって、CPS1という遺伝子の塩基配列に誤りがあり、それが原因で重要な酵素が生成されなくなっていることが分かった。
研究チームはKJちゃんの両親であるニコールとカイル・マルドゥーンに、乳児のDNAの修正を目的とした遺伝子編集のアイデアを提案した。両親の同意を得た後、治療薬の設計、動物実験、そして米国食品医薬品局(FDA)からKJちゃんに対する一度限りの治療許可を得るための取り組みが始まった。
研究チームによれば、まだ1歳に満たないKJちゃんは、徐々に投与量を増やしながら、遺伝子編集薬を3回にわたって投与されたという。ただし、その編集薬がどの程度うまく機能したかについては、まだ正確には判断できていない。KJちゃんの遺伝子が実際に修正されたかどうかを確認するには肝生検が必要だが、患者への負担が大きく、実施を見送っているためだという。
しかしアーレンス=ニクラス医師は、KJちゃんが「成長し、生き生きとしている」ことから、遺伝子編集が少なくとも部分的には成功しており、現在は「この恐ろしい病気のより軽い型」になっている可能性があると語っている。
「KJちゃんは3回治療を受け、合併症もなく、初期の効果の兆候が現れています。ただし、まだ治療から日が浅いため、この治療法の効果を正確に把握するには、今後もKJちゃんを注意深く観察していく必要があります」。
このケースは、将来的に親が病気の子どもをクリニックに連れて行き、DNA配列の解析を受けて、迅速に個別化された治療を受けるという医療の姿を示唆している。現時点では、遺伝子編集の指示を送りやすい肝臓の病気にしか適用できないが、いずれは脳の病気や筋ジストロフィーのような疾患にも応用できる可能性がある。
この実験で注目されているのが、遺伝子編集でできることと、それを必要とする人々が利用可能になりそうな治療法との間のギャップだ。
現在のところ、遺伝子編集を試しているバイオテクノロジー企業は、鎌状赤血球症のような比較的一般的な遺伝性疾患にしか取り組んでおらず、何百もの超希少疾患は手つかずのままである。KJちゃんのように単発で実施された治療は、開発にも承認にも莫大な費用がかかるため、コストを回収する仕組みがない限り実現が困難だ。
しかし、KJちゃんの治療が成功したと見られることから、今後の道筋を模索する必要性がさらに高まっている。研究者たちは、個別化治療の規模をどのように拡大すればよいかまだ分かっていないと認めているが、ムスヌル博士によれば、このプロセスを標準化するための初期的な取り組みが、ペンシルベニア大学および欧州で進行中だという。
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- アントニオ・レガラード [Antonio Regalado]米国版 生物医学担当上級編集者
- MITテクノロジーレビューの生物医学担当上級編集者。テクノロジーが医学と生物学の研究をどう変化させるのか、追いかけている。2011年7月にMIT テクノロジーレビューに参画する以前は、ブラジル・サンパウロを拠点に、科学やテクノロジー、ラテンアメリカ政治について、サイエンス(Science)誌などで執筆。2000年から2009年にかけては、ウォール・ストリート・ジャーナル紙で科学記者を務め、後半は海外特派員を務めた。