KADOKAWA Technology Review
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不妊治療を支える
現代のコウノトリ、
凍結卵子「運び人」の仕事
Nick Little
生物工学/医療 Insider Online限定
I took an international trip with my frozen eggs to learn about the fertility industry

不妊治療を支える
現代のコウノトリ、
凍結卵子「運び人」の仕事

体外受精などの不妊治療は、医療としてすでに確立されている。しかし、法的規制や地域によるあまりに大きな価格差などの事情から、外国での体外受精を選ぶ人も多い。このとき活躍するのが、凍結精子や卵子を運ぶ専門の配送業者だ。 by Anna Louie Sussman2023.02.27

私は、自らの卵子と共にエコノミー・クラスに搭乗していた。私と愛犬スチュワートは8D席、凍結保存された卵子12個(4本の容器に3個ずつ入っている)は、さらに後ろの窓際の席に乗っていた。「デュワー」と呼ばれる極低温保存用フラスコは、小さな機内持ち込み手荷物ほどの大きさの金属製スーツケースに安全に収められていた。イタリア・ボローニャの不妊治療クリニックから、数週間後に私の卵子の体外受精をするスペイン・マドリードのクリニックまでの輸送を担当するパオロの席の隣の床には、このスーツケースが直立した状態でしっかりと置かれていた。

その日の朝、私はボローニャのクリニックにいた。胚培養士たちがパオロとの間でさまざまな書類をやり取りしている。空港でこれらの書類を見せ、卵母細胞がセキュリティ・チェックを通過する際にX線に通されないよう念を押すためだ。デュワーには、液体窒素を吸収してゆっくりと放出するスポンジが敷かれており、(スーツケースの大きさによるが)通常1週間から10日間、内容物を摂氏-196度以下に保つことができるという。

低温工学とコールドチェーン(低温物流)技術の進歩により、配偶子や胚を世界中に輸送することが可能になり、世界中で盛り上がりを見せる不妊治療産業の中でも特に成長している分野となっている。晩婚・晩産化が進む中、不妊治療の需要は年々高まっている。卵子や精子、胚が国境を越えて移動できるようになり、自国では法的規制や法外な価格設定により不妊治療を受けられない数万人もの患者が不妊治療の恩恵を受けている。子どもが欲しい人は、専門の配送業者を利用して、赤ちゃんを作るために必要なすべての要素を揃えることができる。自分の体から採取したものでも、ドナーから提供されたものでも同じように揃えることが可能だ。

卵子や精子、胚をある場所から別の場所に輸送しなければならない理由はさまざまだ。費用、規制逃れ、特定のドナーの配偶子を利用するとき、または海外への引っ越しなど単なる生活の変化などだ。

卵子の凍結にかかる費用は、米国では1万ドルから1万5千ドル、ボローニャやマドリードではその3分の1から2分の1だという。代理出産ビジネスは、資金の出所である顧客(「意図された親」と呼ばれる)に代わり、女性が遺伝子的に無関係の子供を妊娠するもので、米国では複数の州で合法だ(すべての州ではない)。ウクライナ(最近まで世界的な代理出産ビジネスの中心地だった)やグルジアでは代理出産にかかる費用は5万ドルから6万ドルであるのに対し、米国では10万ドルから20万ドルかかることもある。ドナーの卵子は、それに対する報酬が認められているところでは豊富にあり、認められていないところでは不足している。

世界中で毎年250万件もの生殖補助医療が実施されているという。テネシー州に本社を置き、世界中のバイオ医薬品や体外受精、動物医療機関に向けてコールドチェーン物流を提供しているクライオポート・システム(Cryoport Systems)のマーク・サウィキCEOは、うち約10万件が、凍結した生殖物質の輸送に関係していると見ている。

私の場合、2016年にボローニャで卵子を凍結し、その2年後に再びマドリードで卵子を凍結した。ニューヨークで生殖補助医療を受ける資金を貯めるには、さらに数年かかるためだ。それぞれ6年、および4年分の保管費用を支払って、40歳の時に妊娠に挑戦した。ボローニャで凍結した卵子の輸送には、文字どおり私のすべての希望をかけていた。

特別便

かつて、人間の生殖医療を成功させるのは至難の業だった。卵子に受精させるには、関係者が同じ時間に、同じ場所にいなければならなかった。20世紀半ば、ヒトの精子細胞の凍結保存に成功したことで、精子バンクが実現し、精子の輸送が可能になった。1950年代におけるデュワー技術(1892年に真空断熱二重壁ガラス・フラスコを発明したジェームズ・デュワーの名前にちなんで命名)と低温工学の進歩により、低温物質輸送が実現した。

もうひとつの重要なイノベーションである卵子凍結保存は、イタリアの規制や文化的環境に対応したものだった。イタリアでは、カトリック教会が胚を完全な人間として捉えており、初期の体外受精関連の法律にもその考え方が反映されていた。イタリアでは長年、体外受精を手掛ける医師は、1回の体外受精で凍結できる余剰胚の数を制限されていた(ドイツでも同様の法律が残っており、1回の体外受精でできる胚は3個、つまり妊娠のチャンスは3回と制限されており、多くの患者が他の医療機関に治療を求める原因となっていた)。未受精卵なら、このような問題は起こらない。一方、世界の科学者たちは、がん治療を受ける前の生殖能力保存など、卵子を凍結する理由を模索していた。

だが卵子は、凍結・融解が難しい。そのほとんどが水分で構成された大きな単細胞で、凍結すると氷の結晶が発生し、それが卵子にダメージを与えてしまうからだ。当初は緩慢凍結と呼ばれる方法に始まり、後に氷晶ができる前に卵を急速に冷却するガラス化という方法が開発されるなど凍結技術の進歩により、少しずつだが1980年代後半には健康な赤ちゃんが誕生するようになってきた。凍結卵を使った受精の成功率は、クリニックや凍結時の患者の年齢によって異なるが、一部のクリニックの調査によれば、凍結卵を用いた体外受精の成功率は新鮮な卵を用いた場合と同等だという。

今日では、体外受精(IVF:In Vitro Fertilization)産業が高度に発達している国や都市の間の物流を配送業者が担っていることが多く、中には特定の条件や体外受精に必要な品物に特化しているところもある(たとえば、スペインは他のヨーロッパ諸国と比較してドナー卵子の供給量が比較的安定しており豊富だ)。比較的安価で代理出産サービスを利用でき、ドナー卵子の供給が安定しているウクライナは、ロシアが侵攻するまでは、生殖補助医療を受けようとする人々が数多く訪れる場所だった。

ベルリン自由大学のアニカ・ケーニッヒ研究員と、テキサス大学アーリントン校のヘザー・ヤコブソン教授は、こうした柔軟に変化する輸送ルートを、規制の変化やコロナ禍などの状況の急変に反応する「リプロウェブ」と呼んでいる。世界の生殖産業におけるこの柔軟性は、衣料品ブランドが、広大なグローバル・サプライチェーンから最も安価な原材料を調達する一方で、良質な労働力や都合の良い投資環境を追い求めながら世界中に製造拠点を移すさまを想起させる。

配送ビジネスが盛んな理由は、規制逃れやコストの安い場所を追い求めるためだけではない。オーストラリア国立大学の社会学者であるキャサリン・ウォルドビー教授が指摘するように、こうしたサービスの登場により、子どもを欲しいと願う親たちが、特定のドナ …

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