「洗脳」の奇妙な歴史——
偽りと真実が交錯する物語
思想を操り、愛するものさえ嫌悪させるーー洗脳の科学的手法への夢は、冷戦下の米国をとりこにした。中国共産党による洗脳の存在を警告した報告は、CIAに大規模な精神支配プログラムを走らせる口実を与えた。しかし、その実態は中世の拷問に過ぎず、結局は虚構の脅威に過ぎなかった。 by Annalee Newitz2024.04.18
1959年の早春のある日、「赤色中国共同体が米国に及ぼす影響」の調査を担当していた米上院小委員会の前で、エドワード・ハンターは証言した。ハンターにとっては願ってもない機会だった。アジアに長期間滞在した経歴を持つ戦争特派員のハンターは、1951年に『洗脳:中共の心理戦争を解剖する(Brain-Washing in Red China)』(1953年、法政大学出版局刊) を出版して、一時メディアでもてはやされていた。彼の著書は、かつて嫌っていたものさえ愛するまでに人々の心を変えるための科学的とされるシステムを、米国の大衆に新しい概念として紹介したものだった。
しかし、ハンターは中国の状況を客観的に書き綴るだけの記者ではなかった。集まった上院議員らに申告した通り、彼は第二次世界大戦中の米国の諜報機関「戦略サービス局(OSS)」の宣伝を担当する反共活動家でもあった。そうした立場は、当時は普通であり愛国的であると考えられていた。ハンターの報告は、事実と政治的神話の境界を曖昧にした。
ある上院議員がOSSでの仕事について質問すると、ハンターは自身について、中国本土で「精神攻撃の手法を発見」した最初の人物であり、あらゆる言語において文書の中で「洗脳」という言葉を初めて使い、また「中国語以外ではその言葉を初めて口頭で使用した」 と豪語した。
そのどれもが真実ではない。ハンターが関連記事を発表する前に、OSSに関係のあった他の諜報員が報告書でその言葉を使用していたのだ。さらに重要なことに、香港大学の法学者ライアン・ミッチェル准教授が指摘している通り、ハンターが公聴会で使用した「wash brain(洗脳)」という意味の中国語である「xinao」には、19世紀後半までさかのぼる長い歴史がある。科学性を重んじていた当時の中国の哲学者が、悟りに似た意味でこの言葉を使っていたのである。
それにもかかわらず、ハンターの刺激的な作り話は、冷戦下で宇宙開発競争と並んで起こった「マインドコントロール競争」を煽るデマやニセ科学の重要な要素となった。脳機能に関する新しい研究に触発された米国の軍と諜報機関は、人間の脳を操る研究に数百万ドルを費やした。ソビエト連邦や中国との精神戦争に備えたのである。その科学が結果を出すことは遂になかった。しかし、類を見ない争いによって促進された信念の残滓は、イデオロギーと科学の議論において今日まで役割を果たし続けている。
強制的説得とニセ科学
皮肉なことに、「洗脳」というのは中国の共産主義者間で広く使われていた単語ではなかった。ミッチェル准教授がメール内で私に語った「xinao」という言葉は、実際には「xixin(心を洗う)」という古い単語をもじったものだ。xixinは儒教や仏教における自己認識の理想を暗に示す言葉である。1800年代後半、梁啓超りょう けいちょうなどの中国の改革派が、この単語の「心」を「脳」に置き換えてxinaoと使い始めた。1つには、中国哲学の近代化を試みていたという理由があった。「彼らは、西洋科学全般を可能な限り受け入れて吸収することに熱心でした。『意識の座』としての脳に関する議論は、そうして輸入された一連のアイデアの1つの側面に過ぎませんでした」と同准教授は述べた。
梁とその一派にとって、洗脳というのは精神を拭い去るようなプロセスではなかったのである。「それは認識論的美徳、または現代世界で正しく振る舞うために自らを近代化する個人的な義務というような概念でした」(ミッチェル准教授)。
その頃、中国の国外では、科学者らは我々が通常思い浮かべる意味での「洗脳」を研究し、精神の浄化と修正についての実験をしていた。その実現性に関する初期の研究のいくつかは、1890年代にソビエト連邦が出資したプロジェクトによって始まった。鐘の音で涎を垂らすよう犬を躾けた実験で有名なロシア人生理学者のイワン・パブロフが、動物の行動にトラウマが及ぼし得る影響について調査したのである。パブロフは、溺れかけるような強烈なストレス体験の後では、最もよくしつけられた犬でさえ訓練を忘れてしまうことを発見した。特に、それを睡眠不足や隔離と組み合わせると反応が顕著になった。パブロフには、動物の記憶を消し去る手っ取り早い方法を見つけ出したかのように見えた。この発見を受けて、科学者らは鉄のカーテンの両側でそれが人間にも有効だろうかと思いを巡らせた。そして記憶を消し去った後で、代わりに他の何かを据えることができるのではないかと考えた。
1949年、ハンガリーの反共産主義者ヨーゼフ・ミンツェンティの公判中、米国政府高官はロシアがその答えを見つけたのではと懸念した。カトリック教会の枢機卿だったミンツェンティは、ソビエト連邦が支援した新生ハンガリー人民共和国のいくつかの政府政策に抗議していた。彼は逮捕され、拷問を受けた。そして最終的には裁判で、一連の奇妙な自白をした。ハンガリーの王冠の宝石を盗み、第三次世界大戦を開始し、自身を世界の支配者にしようと企んだ、と自白したのである。カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)で精神医学教授を務めるジョエル・ディムズデールは、2021年に著書 『洗脳大全—パブロフからソーシャルメディアまで—(Dark Persuasion: A History of Brainwashing from Pavlov to Social Media)』(2022年、青土社刊) の中で、ミンツェンティの信じ難い陳述についてこう主張している。米国の諜報機関は、強制的説得によって人間に対するマインドコントロールを可能にする何らかの科学的突破口をソビエト連邦が開いたものとし、ミンツェンティの告白をその裏付けと捉えた、と。
この疑問がより緊急性を増したのは1953年のことだ。その年、中国と韓国で一握りの米国人戦争捕虜が寝返った。そして、米国はアジアで細菌戦争を実験していたという共産主義の主張を認めるフランク・シュワブルという名の海兵隊員の発言が中国のラジオで流されたのである。この時、ハンターはすでに中国での洗脳についての本を出版していた。そのため西側の大衆は、捕虜がミンツェンティと同じように洗脳されていたという説明にすぐさま引き寄せられた。怯える人々にとって、頼りになるはずの米軍兵士がいかにたやすく赤化するかというハンターの主張には説得力があった。
朝鮮戦争に続くその後の数年間、米国では、「洗脳」はあらゆる過激な、または非協調的な行動をひとまとめに説明する用語として浸透した。社会科学者も政治家も、この考えに飛びついた。例えば、オランダの心理学者ジュースト・メルルー医学博士は、 テレビのことを洗脳装置であるとして警告した。反共産主義の教育者、J・メリル・ルートは、 高校が子どもたちを洗脳して意思薄弱で共産主義の影響を受けやすい状態にしていると …
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