KADOKAWA Technology Review
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新型コロナ研究所流出説、
研究者生命を賭けた
ある科学者の闘い
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生命の再定義 Insider Online限定
They called it a conspiracy theory. But Alina Chan tweeted life into the idea that the virus came from a lab.

新型コロナ研究所流出説、
研究者生命を賭けた
ある科学者の闘い

新型コロナウイルスの起源をめぐって、中国の研究所からの流出の可能性を指摘したのは、米国の著名な研究機関で働く博士研究員(ポスドク)だった。当初は陰謀論と一蹴された主張は、彼女の粘り強い活動によって科学界のコンセンサスに変化をもたらしている。 by Antonio Regalado2021.08.12

アリナ・チャン博士が疑問を投げかけ始めたのは、2020年3月だった。チャン博士は、中国から広がった新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)についてフェイスブックで友人と話していた。チャン博士は、新型コロナウイルスが食品市場から発生したと言われているのはおかしいと思った。そうだとすれば、なぜ新型コロナウイルスに感染した動物が見つからないのだろう? なぜ誰も別の可能性があることを認めないのだろう? チャン博士には、その理由は明白だった。今回のアウトブレイクは、研究室で起こった事故が原因の可能性があるからだ。

チャン博士は、ブロード研究所(Broad Institute)の遺伝子治療研究室で博士研究員(ポスドク)として働いてる。ブロード研究所はマサチューセッツ州ケンブリッジにあり、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)が共同で運営している権威ある研究機関だ。チャン博士は、これまで複数の研究所で働いた経験から、こういった研究所は完璧ではないことを知っていた。実際、チャン博士はよく問題点を指摘していた。ハーバード大学の研究室では、労働条件に関する内部告発に関わったこともある(チャン博士もハーバード大学も詳細についてのコメントを控えている)。チャン博士は、たとえ自分のキャリアに良い結果をもたらさないとしても、常に身を挺して行動する人のようだ。「そういう意味では、私はおろかです」とチャン博士は言う。「生まれつき面倒を起こしがちなのです」。

チャン博士の友人の1人が、『The proximal origin of SARS-CoV-2(新型コロナウイルスの近位起源、以降Proximal Origin)』と題したレター(速報論文)をフェイスブックに投稿したことから議論は始まった。5人のウイルス学者が新型コロナウイルスの可能性がある発生源を分析したこの論文の著者たちは、新型コロナウイルスのゲノムを注意深く観察し、意図的に操作された痕跡は見つからなかったと述べていた。友人は、この論文によってすべての陰謀論は「否定される」はずだと言った。だが、これを読んだチャン博士は問題点を見つけた。新型コロナウイルスが大規模な遺伝子操作によって作られたものだという可能性を否定するために、他の単純なシナリオが除外されていたのだ。例えば、野生のコウモリから採取された通常のウイルスが武漢の研究所に持ち込まれていたとしたら、何らかの理由ですり抜けて出回った可能性があった。

「『(論文の)著者たちは大きな間違いを犯している』と思いました」とチャン博士は話す。「研究所から流出する、すべての可能性を考慮していなかったのです」。

現在、チャン博士の見解は広く受け入れられている。それは、チャン博士のツイッターのおかげでもある。チャン博士は2020年の1年間、科学的な議論や疑念を執拗に煽り、時には不自然だと思う研究にはユニコーンのGIF画像を添付して強調した。新型コロナウイルスに似たコウモリのウイルス研究の世界的な中心地である武漢ウイルス研究所(Wuhan Institute of Virology)が、今回のアウトブレイクの初期の症例が確認された場所から12キロメートルのところにあることから、多くの科学者は新型コロナウイルス研究所流出説の可能性を内心では信じていた。だが、実際には何のエビデンスもなく、ある著名なウイルス学者が筆者に語ったように、「大物を相手にしても」割に合わないのだ。

チャン博士は、自分の知力を世界最高峰のウイルス学者にぶつけることを恐れなかった。その粘り強さによって一部の研究者は意見を変えていった。あまりにも急激な考え方の転換があったため、報道機関は研究所流出説を陰謀論と決めつけた古い記事を更新しているところだ。例えば、ヴォックス(Vox)のある記事では、「科学的コンセンサスが変化した」と説明している。2021年5月、バイデン大統領は、新型コロナウイルスの起源について再調査し、夏の終わりまでに報告するよう情報機関に命じた。

「私の目的は、達成されたと思います」とチャン博士は言う。「私はただ、調査をして、真剣に考えてもらいたかっただけですから。私の仕事は終わりました。普通の生活に戻ろうと思います」。

しかし、そう簡単に戻れそうもない。

テレビやラジオ番組で引っ張りだこのチャン博士は、英国の科学ライター、マット・リドリーと組んで、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の起源を探るフーダニット(訳者注:犯人探しを楽しむミステリー作品)を書く契約を、出版社のハーパーコリンズ(HarperCollins)と結んだばかりだ(チャン博士もリドリーも、契約金についてはコメントしていない)。チャン博士はまた、事実上、史上最大の大量虐殺をしたと中国を非難した責任も負わなければならない。本が出版された後は、名前を変えて静かに科学者としてのキャリアを続けようと思っている、とチャン博士は言う。

一方でチャン博士は「民族の裏切り者」というメッセージを受け取るなど、不快で怖い思いもしている。民族的には中国人の血を引くチャン博士だが、カナダで生まれ、家族の出身地であるシンガポールで育った。チャン博士によれば、家族は政治に関心がなく、両親は情報技術分野の仕事に従事している。「トラブルに巻き込まれない。政治に関わらない」がチャン家の家訓だ。チャン博士は16歳でカナダに戻り、学位と博士号取得のためブリティッシュ・コロンビア大学に進学した。カナダとシンガポールの2国のうち、どちらかの国籍を選択しなければならず、最終的にカナダのパスポートを選んだ。

ブロード研究所でチャン博士を取材する前に、暗号化アプリ「シグナル(Signal)」を使って打ち合わせをした。チャン博士は、どのフロアで働いているかを言いたがらず、建物の外で面会した。チャン博士は友人たちに、中国政府に追われているかもしれないと話しているという。「現在の目標は生き延びることと、ハッキングされないことです」。

https://twitter.com/Ayjchan/status/1402059265330851849

「安全面で心配しています」とチャン博士の上司であるブロード研究所のベン・デバーマン博士は言う。ブロード研究所は、ヒト・ゲノム研究における米国有数の研究所で、年間5億ドルの予算がある。デバーマン博士の研究室では、遺伝子療法に活用できるウイルスを研究している。「チャン博士はおそらく誰よりも、一般の人々を巻き込んで、科学的で中立的な立場から物事を提示してきたと思います。しかし、当時は中立的に見えなかったのかもしれません」とデバーマン博士は研究所流出説に関するチャン博士の意見について述べた。「チャン博士の見解は変わっていませんが、まわりの人たちの見解が変わってしまったのです」。その中は、チャン博士の言論の自由を支持しながらも、仕事とツイッター活動との間に一定の距離を保つことを求めている研究所内の人々も含まれる。「我々は、チャン博士のツイッターの活動は、彼女の報酬の範囲外だと考えています」とデバーマン博士は言う。「チャン博士が自分自身のこととして発言している限り、研究所流出説について議論し、追求することはチャン博士の権利なのです」。

「研究所流出説が暗示しているすべてのことや、それが真実であると判明した場合に何が起こるのかを考えるだけでも恐ろしい」とデバーマン博士は話す。「少し気味が悪いです。正直なところ、世界がその情報をどう扱うかは分かりませんが、良いことばかりではないはずです。科学者が研究所流出説を唱える影響の重大性があります」。

研究所流出説に関心を持つ他のジャーナリストと同様、筆者も2020年5月からチャン博士を追っている。チャン博士は、新型コロナウイルスの謎を追うサイバー探偵たちの中でもユニークな存在だった。実際に科学機関で働き、頭がおかしいわけでも、明らかな動機があるわけでもなさそうだったからだ。チャン博士は賢くて親しみやすく、数え切れないほどの文献を引用して、いつも時間をかけて説明してくれた。カリフォルニア大学デービス校で微生物の進化を研究し、ソーシャル・メディアで新型コロナウイルス起源の議論にも積極的に参加するジョナサン・アイゼン教授は「チャン博士のおかげで、陰謀論者だけでなく、より多くの人が研究所起源論を議論したいと思うようになったのは間違いありません」と語る。

https://twitter.com/Ayjchan/status/1394327675884511239

だが、研究所流出説の明らかな問題点は、具体的なエビデンスが残っていないことだ。チャン博士には、コウモリの洞窟で学生が病気になった、新しいウイルスをマウスに感染させる極秘研究が失敗した、といった事故がどのように発生したかという正確な経緯について特別な見解を持ってはいない。投稿を読んで気づいたのは、その主張の多くが直接的なエビデンスとは関係なく、むしろエビデンスがないことを問題にしている点だ。中国の研究者がしなかったことや言わなかったこと、すぐに明らかにしなかった重要な事実、市場で感染した動物が見つけられなかったこと、オンラインでは消されてしまったデータベースなどを指摘する姿勢が顕著だ。隠蔽工作、つまり真実を隠すための陰謀の存在を明らかに示唆している。

あらかじめ適応されたウイルス

2020年2月、新型コロナウイルスのゲノムを解析した著名な科学者たちは、最終的に2本の記事を発表した。一つは医学雑誌ランセット(Lancet)誌に掲載された声明で、研究所での事故の可能性を「陰謀論」として真っ向から否定している(著者には武漢ウイルス研究所での研究に資金を提供した科学者も含まれている)。もう一つは、カリフォルニア州ラホヤにあるスクリプス研究所(Scripps Research Institute)の進化生物学者、クリスチャン・アンダーセン教授が共著者として執筆し、ネイチャー・メディシン誌に掲載された前出の『Proximal Origin』だ。アンダーセン教授と共著者たちは、新型コロナウイルスのゲノムを調べ、自然界で発見された他のウイルスと類似しているというエビデンスをもとに、自然発生の可能性が極めて高いことを論証した。

新型コロナウイルスの遺伝子を構成する3万個の文字列は、このウイルスの起源を知る上で最も広く研究されている。コロナウイルスでは頻繁に文字配列の変更が起きるが、この現象を「組換え」と呼ぶ。アンダーセン教授は、新型コロナウイルスを構成するすべての要素が、長年にわたり動物から採取されたサンプルの中に以前から確認されていたことを発見した。進化が新型コロナウイルスを作ったのではないか、とアンダーセン教授は考えたのだ。武漢ウイルス研究所では科学実験を目的としてコウモリのウイルスを遺伝子操作していたが、新型コロナウイルスのゲノムは実験によく使われる「基本骨格」ウイルスのどれとも一致せず、その他の明らかな操作痕跡も見られなかった。

分析会社のクラリベイト(Clarivate)によれば、ネイチャー・メディシン誌に掲載された論文は1300件以上引用され、2020年に最も引用された掲載記事の55番目だった。メールの記録によれば、2020年1月から、『Proximal Origin』の共著者である米国立アレルギー感染症研究所(National Institute of Allergy and Infectious Diseases)のアンソニー・ファウチ所長、著名なウイルス学者、英国の主要な医薬品研究助成機関であるウェルカム・トラスト(Wellcome Trust)の責任者たちの間で、緊急かつハイレベルなメッセージのやり取りや電話会議が開かれていたことが後に …

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