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脳を若返らせる奇跡の分子
その発見までの軌跡
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The miracle molecule that could treat brain injuries and boost your fading memory

脳を若返らせる奇跡の分子
その発見までの軌跡

10年以上前に偶然が重なって発見されたある分子によって、アルツハイマー病や外傷性脳損傷などを治療できる可能性が明らかになりつつある。現在「ISRIB」と呼ばれるこの分子は、健康な人の認知機能を向上させることもできるかもしれない。 by Adam Piore2021.12.02

カルメラ・シドラウスキには、奇跡の薬を探しているつもりはなかった。カリフォルニア大学サンフランシスコ校のピーター・ウォルター教授の研究室には、実験を自動化して高速で実施できる設備があり、彼女はそこで何千という分子をテストしていた。テストではじかれたものの中から彼女はひとつの分子を拾い上げ、さらに調査すると決めた。それが秘める何らかの力に興味を持ったからだ。

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それが2010年のことだ。現在、医療分野における将来的な応用例をまとめると、この分子は信じられないほどの有望株に思えるだろう。シドラウスキが追加調査を決めた後、この分子は外傷性脳損傷を負って数カ月が経過したマウスの記憶形成を回復してみせた。さらにアルツハイマー病、パーキンソン病、ALS(筋萎縮性側索硬化症あるいはルー・ゲーリック病とも呼ばれる)などの神経変性疾患を治療できる可能性があることもわかっている。のみならず、加齢に伴う認知機能の低下も緩和できるようだ。さらに健康な動物に(少なくともマウスに対しては)映像記憶並みの記憶力を与えてもいる。

この分子がこれほど多彩な効果を発揮する理由について、身体的外傷や神経系疾患が脳にもたらすストレスの処理に関わっているからだとシドラウスキは考えている。前述のような問題が体に起こると、脳は自分自身を守るために記憶形成などの認知機能を止めてしまう。新発見のこの分子はそれを逆行させるのだ。「見つけようと思って見つけたわけではありません。言ってみればたまたま見つかったんです」とシドラウスキはいう。「しかし、多様な病理の根源となるかもしれない経路を制御する新しい方法を得られると考えると胸が踊ります」。

この分子は人間の認知機能も回復できるのだろうか。それはまだわからない。これまで研究の大部分はマウスや、ペトリ皿に置いた人間の細胞を使ったものだ。しかし詳しいことはすぐにわかるだろう。2015年、シリコンバレー発のバイオテクノロジー企業であるカリコ・ラボ(Calico Labs)がこの分子のライセンスを取得した。カリコ・ラボは、老化の生物学に基づいた創薬を目的に、グーグルの創業者らが立ち上げた企業だ。カリコ・ラボはシドラウスキを主任研究員として採用し、ALSやパーキンソン病、外傷性脳損傷を含めたさまざまな疾病の治療にこの分子を応用する研究に取り組んでいる。2月には、この分子をもとに開発した最初の神経変性疾患用の医薬品候補のヒトを対象とした安全性試験を開始すること、そしてALS患者を対象とした研究を今年中に始めることを発表している。パーキンソン病や外傷性脳損傷用の医薬品候補についてもこれから発表がある可能性が高い。

こうした医薬品の完成はまだまだ先の話かもしれない(大部分の候補が初期の臨床試験を通らずに終わる)が、早くから成果を示せたことは、ウォルター教授や世界各地の研究者によって最近実施された研究と相まって、衝撃的な仮説に説得力を与えた。外傷性脳損傷やアルツハイマー病、さらにはダウン症候群のような遺伝子疾患が重篤な認知機能の問題を引き起こす原因は、疾患や遺伝的要因また外傷そのものではなく、細胞がそうしたストレスに対処するしくみにあるという仮説だ。

シドラウスキとウォルター教授の研究によって、現在「ISRIB」と呼ばれているこの分子は、マウスの細胞が新しいタンパク質を合成する速度を調節するためのニューロン内の主要経路を改変することで効果を発揮することがわかった。新しいタンパク質の合成は記憶形成と学習に欠かせない過程だ。ウォルター教授らの研究によって、細胞がストレスにさらされるとタンパク質の合成が完全に停止する可能性が明らかになっている。シドラウスキの分子は、それを回復させる美しいまでにシンプルなメカニズムを持つと考えられている。

これが人間にも有効なら、医療への応用の可能性は計り知れないほど大きく、そして広くなる。多種多様な原因で起こる認知機能の問題が、細胞の反応を微調整するだけで解決できるかもしれないからだ。しかし危険性もある。これほど根源的なプロセスを操作することは、意図しない有害な変化を引き起こすリスクも生まれるのだ。

「副作用があるかどうかを知る必要があります」と語るのは、コロンビア大学の神経科学者で、記憶を専門とするアルン・アソク研究員だ(この研究には関与していない)。「しかしこうした医薬品の需要はあります。現時点で治療法がほとんどない疾病に苦しむ多くの人々を救えるかもしれません」 。

ストレスがタンパク質の合成を停止させる

記憶とは、人が過去を思い返すときに浮かび上がる感覚的体験と思考が組み合わさってできる、その人固有の星座のようなものだ。その記憶が、人間の脳を構成するニューロン同士のおびただしい結びつきの中に何らかの形でエンコードされているという説は、神経科学の黎明期から存在した。

今ではタンパク質の合成がこのプロセスの中で重要な役割を果たすことがわかっている。ニューロン同士をつなぐタンパク質は、経験を脳に刻みつけるために必要な材料でもあるのだ。現に1960年代の研究で、タンパク質の合成を化学的に妨げると新しい記憶が形成できなくなることが分かっている。

ウォルター教授は1980年代から90年代にかけて、折りたたまれていない、または正しく折りたたまれていないタンパク質が細胞内に検出されたときに(これは神経変性疾患の特徴である)、問題が解決するまでタンパク質の合成を全て停止する緊急停止装置のようなものが作動することを示した。ウォルター教授が「小胞体ストレス応答(UPR:Unfolded Protein Response)」と名付けたこの現象は、せわしない職場で非常警報を鳴らして業務をストップさせるのに似ている。ストップした後は細胞の修理担当が現場に集まって問題の修正を試み、手の施しようがなくなれば最終的に細胞に自殺するよう命令を出す。

それからまもなく他の研究者によって、正しく折りたたまれなかったタンパク質のほかにも、さまざまな要因で体細胞のタンパク質の合成が一時停止することが発見された。飢餓、ウイルス感染、物理的な力による細胞構造の損傷、老化した細胞によく見られる酸化ストレスなど、タンパク質の製造ラインの停止装置を作動させる可能性があるストレス要因は数多く存在する。実際、代謝機能が混乱すればほぼ確実にタンパク質の合成が停止し、細胞死を誘発する可能性があることがわかっている。やがて他の研究者たちは、ウォルターの小胞体ストレス応答を包含する症状に名前を与えた。それが「統合的ストレス応答(ISR:Int …

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