大西洋の海流が止まる——
「地球規模の惨事」回避へ
海の謎に挑む科学者たち
大西洋の広範囲にわたって循環する海流は、気候変動を理解するために重要な要素となる。しかし、直接観測する試みを進めるにつれて、この大西洋循環システムは、かつて考えられていたよりも得体のしれない、予測不可能なものであることが分かってきた。 by James Temple2021.12.24
2020年12月のある土曜日の朝、「王立調査船ディスカバリー(RRS Discovery)」号は、穏やかな海上に浮かんでいた。その位置は、北極から南極付近まで広がる巨大な海底山脈である大西洋中央海嶺のわずか東だ。
この調査船に乗っているのは、主に英国の国立海洋学センターから来た研究者たちのチームだ。音響信号システムを合図にして、海底にある約1.8トンの錨(いかり)から5キロメートル以上のケーブルを放出した。
探検隊の主任科学者であるベン・モート博士らが船橋に向かうと、最初の浮きが海上に現れた。甲板でヘルメットをかぶり、命綱を身に着けた技術者たちは、ケーブルを巻き上げた。浮きのほかに、各深度で塩分と水温を測定するセンサーを外すため、技術者らは数分ごとに巻き上げ機を止めた。センサーで計測されたデータは、通り過ぎる水の圧力、流れの速さ、水量を計算するために使用される。
この科学者と技術者からなるグループは、「ラピッド(RAPID)」として知られる国際的な共同研究の一環として派遣されたものだ。サハラ西部やフロリダ南部を通る北緯26.5度線に大まかに沿って、大西洋に点在している十以上の係留装置に付いた、数百ものセンサーから測定値を収集している。
チームが追い求めているのは、地球の気候システムのうち最も重要な力のひとつである、「大西洋南北熱塩循環(AMOC:Atlantic Meridional Overturning Circulation)」という海流のネットワークに関する手がかりだ。地球温暖化により、大西洋南北熱塩循環がどのように変化しているか、そして今後数十年間でどの程度変化し得るか、さらには崩壊する可能性があるかも含めて、より理解したいと考えている。
「大西洋南北熱塩循環の測定は、地球の気候を理解するために不可欠です」とモート博士は話す。
大西洋循環は、事実上、世界で最も強力な海流のひとつだ。南極海からグリーンランドまで往復し、アフリカの南西海岸、米国南東部、欧州西部の間を行き来して、何万キロもの距離を流れている。
この海流システムは、海面付近の温かくて塩分の強い水を北へ運ぶ。RAPIDの係留装置全体で観測によると、約120万ギガワットの熱エネルギーを常に移動させている。これは、全世界の電力システムの約160倍のエネルギー容量に相当する。ほぼ同じ緯度にあるにもかかわらず、欧州西部のほうがカナダ東部よりも暖かい理由は、主にこの海流が北上する際に周囲の空気を温めるためだ(ほかにも理由はある)。
海水は、高緯度に達するとより冷たく高密度になる。それによって海流は水面から数キロ下方に潜り、外側へ広がって湾曲しながら南に戻っていく。このように流れが海底深くに沈むことで、海流システムの推進力が増している。
この大西洋の循環が弱まり、運び届ける水量と熱量が減少しているように見えることが、問題となっている。気候変動のため、高緯度の海上で溶けた氷床が淡水となって注がれていることに加えて、海面水温が高く保たれている。より温かく、真水に近い水は密度が低いため、海底に沈む力は弱まる。これが、海流の主な推進力のひとつを損ねている可能性があるのだ。
簡単に言えば、この海流は北半球の気候の大部分に影響を与える。大西洋沿岸付近だけでなく、影響ははるか遠くのタイなどにも及ぶ。海流が変化すると、天候も変化し、何世紀にもわたって私たちの生活や社会を形成してきた気温や降水パターンを乱すことになる。
一部の気候モデルによる研究では、この海流が今世紀中に45%も弱まると予測されている。そして、最後の氷河期が残したエビデンスによると、地球温暖化が繰り返された場合、大西洋南北熱塩循環が最終的に停止するか、非常に弱まる可能性を示している。
もし、そうなったら、気候災害がもたらされる可能性が高い。欧州の極北地域は凍結し、冬の平均気温は10°C以上下がる可能性がある。大半の地域で気温が低下し、乾燥するため、欧州大陸全体で作物生産や収入が低下するかもしれない。海面が北米東海岸で30センチメートルほど上昇し、海岸沿いの家屋やビルが浸水することも考えられる。そして、アフリカとアジアの大部分で夏季モンスーンが弱まり、干ばつや飢饉の発生率が高まり、計り知れない人口に十分な食料や水が行き渡らなくなる可能性もある。
それは「地球規模の大惨事」になるだろうとポツダム気候影響研究所のステファン・ラームストルフ教授は話す。
科学者の大半は、大西洋南北熱塩循環の崩壊は今世紀中に起こりそうもないと語る。だが、急激に減速するだけでも重大な影響をもたらし、北大西洋周辺で気温が下がり降雨量が減る一方で、熱帯地域の一部で降水量を増やす可能性がある。米国南東部の海岸では海面が13センチメートルほど上昇することもあり得る。
それほど危険であるにもかかわらず、海流の動きやそれらを動かす力のバランス、あるいは、変化する気候条件が及ぼす影響の度合いについて、科学者たちは大まかなことしか理解できていない。モート博士らが大西洋循環の観測を熱心に進めているのはそのためだ。
しかし、これまでに分かった主なことは、大西洋南北熱塩循環がこれまで理解されていたよりも変化に富み、複雑で、おそらく予測不可能であるということだ。
フロリダ海流
米国海洋大気庁(NOAA)の大西洋海洋・気象研究所は、マイアミの市街地からわずか数キロ先の砂州島バージニア・キーにある、ヤシの木に囲まれた、白くて横に長い5階建ての施設だ。
大西洋循環の温暖な上層の海流は、フロリダ州とバハマの間で圧迫され、勢い良くこの島を通り過ぎる。同研究所内ではこれを「フロリダ海流」と呼んでいる。フロリダ海峡の地形は、数百キロメートルにも及ぶ海流を数十キロメートルの幅に狭めるため、大西洋南北熱塩循環で最も強力な領域のひとつを観察するのにもって来いの場所といえる(フロリダ海流はメキシコ湾流の一部であり、大西洋を渡って欧州に到達する前に、米国南東部の海岸沿いを流れる大西洋循環の一部である)。
NOAAの科学者たちは、主に海底電話ケーブルを利用して、1982年以降ほぼ継続的にフロリダ海峡の北緯27度付近を観測してきた。海底に敷かれ、現在は使われていないこの電話回線は、大西洋循環を観察するうえで安価かつ地道な方法をもたらしている。
通過していく海水は、ケーブルの側面に沿って電位差を生み出す。NOAAの研究者らは、その電位差を確実に測定できる方法を発見し、グランド・バハマ島の電話トランクルーム内に設置された機器を使って測定値を毎日受信している。測定値を注意深く補正することにより、北緯27度線付近を流れる水量の推定値を割り出せるのだ。
大西洋南北熱塩循環の仕組み
NOAA研究所のすぐ向かいに位置する、マイアミ大学ローゼンスティール海洋大気科学部のウィリアム・ジョンズ教授をはじめとした海洋学者らは、センサーをつないだ係留装置などの機器を使用して、1980年代以降、バハマ東部の海流を調査してきた。南方に向かって流れる冷たい深層境界流と、バージニア・キーの周りを分岐して北向きに流れる温暖な海流の両方を観測している。
これらの取り組みは、海洋がどのように機能し、気候と相互作用しているかを科学的により理解するため、幅広く推進された取り組みの一環として始まった。そう語るのは、ケーブルを使ったプログラムの展開をサポートしたNOAA研究所のモリー・バリンジャー副所長だ。
しかし、地球温暖化が大西洋循環に与えるかもしれない影響、そして反対に、大西洋循環が気候に与えるかもしれない影響について懸念が高まってきており、現在進行中のケーブルによる観測とこれまでの記録の重要性は、さらに高まっている。「海は大西洋循環によって熱をあちこちに移動させています」とバリンジャー副所長は話す。「気候変動を理解するには、そのことを分かっていなければいけません」。
1990年代を通じて、大西洋循環システムの一部を測定しようとする試みが増加した。そのなかには、短いケーブルでアンカーとつながった係留装置や、漂流する浮き、船上観測などの手段を使ったものがあった。しかし海洋学者たちは、こうした断片的な観測では、大西洋循環システムの動きを完全には把握できないと気づくようになった。特に必要とされていたのは、短期的な変動と長期的な傾向を区別するために、海洋を横切る海流を継続的に観測する方法だった。
その目的、すなわち大西洋を横断してケーブルを設置するためだけに、英国の国立海洋学センターは、RAPIDという試みを2004年に立ち上げた。NOAAやマイアミ大学の研究グループとも協力して、両者が継続している観測活動を活用することは、とても理にかなったことだった。
モート博士によると、研究者たちが明らかにしようとしているのは、この海流がどれだけ変化しやすいのか、どれだけの熱を運んでいるのか、どの程度の二酸化炭素を大気中から取り込んでいるのか、南向きと北向きの海流がどれほど調和したものであるのか、局地風がどの程度このシステムに影響しているのか、そして重要なのは、気候モデルが …
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