下水監視は「サイレント・パンデミック」への備えになるか
下水には人間の健康に関する情報が大量に含まれている。下水監視は小規模な試みにとどまっていたが、新型コロナのパンデミックによって状況は変わった。抗生物質への耐性を持つ細菌による「サイレント・パンデミック」対策にも活用できるかもしれない。 by Jessica Hamzelou2023.02.12
この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
喉の痛みや鼻づまりに悩まされた私は最近、ほこりをかぶった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の検査キットの箱を開けることとなった。私の住む英国では、集団免疫がかなり確立されてきたため、ここしばらくは検査をする必要がなかったのだ。この3年間で、私は少なくとも一度は新型コロナウイルスに感染し、ワクチンも3回接種していた。
もちろん、今回のパンデミックはまだ終わってはいない。だが、新型コロナウイルスを検出するために開発されたツールが、次のパンデミックがやってきた時にどのようにして役に立つのだろうかと私は考えていた。次のパンデミックとは、抗生物質に耐性を持つ細菌の蔓延だ。科学者はこの脅威を「サイレント・パンデミック」と呼んでいる。
薬剤耐性、通称AMR(Antimicrobial Resistance)は、すでに深刻な問題となっている。研究者たちの試算によると、2019年の1年だけでも500万人の死因に薬剤耐性菌が関わっているという。しかも、この問題は悪化の一途をたどっている。新たな抗生物質の探索がうまくいっていないのだ。その一方で、細菌とその薬剤耐性遺伝子は広がり続けている。
細菌やウイルスに感染した人は、トイレで水を流すたびに病原体を下水道に垂れ流している。ここ近年は、各国が下水から新型コロナウイルスを検出する取り組みを進めている。こうした研究によって、ある地域にどのくらいの感染者がいるのか、また地域社会でどの変異株が蔓延しているのかを推定できるようになった。同様の方法を使えば、薬剤耐性菌の影響を的確に把握し、最小限にとどめることができるかもしれない。
下水には人間の健康に関する情報が大量に含まれている。例えば、下水を採取することで、その地域社会における薬物の使用状況を確認することなどもできる。また何年も前から科学者たちは、下水を調査してポリオの流行を監視している。
しかし最近になるまで、こうした研究の大部分は比較的小規模で、学術的な試みにとどまっていた。米国疾病予防管理センター(CDC:Centers for Disease Control and Prevention)の環境微生物学者であるエイミー・カービー博士は、新型コロナウイルスの流行がその状況を一変させたと言う。
全米規模で下水を監視しようとすると、「構築に非常に費用がかかる」システムに頼らざるを得ないとカービー博士は指摘する。このようなシステムの開発は、以前はコストが高すぎるという理由で見送られてきた。「しかし、新型コロナウイルス感染症の世界的流行が経済に大きな打撃を与えたことで、その計算式が変化し、こうした初期投資に踏み切るだけの価値が生じたのです」とカービー博士は述べる。
新型コロナウイルスに対する下水監視システムが完成したことで、それを薬剤耐性菌など他の病原体の監視に応用することも考えられるようになった。
現状として、AMRの蔓延に立ち向かう新たな方法が切実に必要となっている。現代人は抗生物質に頼り切っており、感染症の治療に使用するだけでなく、時には手術を受ける患者やその他の理由で抵抗力の弱い人などに対し、予防的に使用することもある。しかし、抗生物質の効果に耐性のある遺伝子を持つ病原体には、効果は発揮できない。
「薬剤耐性菌を原因とする感染症は、より長期にわたって症状が続き、より大きなダメージを与えることがあります。(中略)さらには、死に至るリスクもより大きくなります」と、英国エクセター大学のアン・レナード講師は述べる。また、私たちの食料となる植物や作物に感染する細菌や真菌類を殺菌するときにも、抗菌剤が必要になる。
カービー博士は、下水中に含まれる薬剤耐性菌を継続的に調査する、全米規模の水質監視システムの構築に向けた取り組みを指揮している。彼女のチームは、下水処理場から採取したサンプルを分析し、薬剤耐性能をもたらすことが分かっている細菌遺伝子を探索する計画だ。
カービー博士が目指しているのは、感染症の原因となり得る細菌の痕跡を見つけることだ。たとえ、その細菌に曝露した人すべてが発症するわけではないにしても、その細菌によって病気になる人がいるかもしれないのだから。
また、細菌はたとえ異なる種同士であっても、互いに遺伝子を交換することができる。そのため、無害な細菌が薬剤耐性遺伝子を危険な細菌に渡し、抗生物質に対する耐性を獲得させる可能性も考えられる。
「米国の家庭の80%がこれに該当するのですが、下水システムと繋がったトイレを使用していれば、医療機関にかかっていなくても(その人の)感染症に関する情報を得ることができます」とカービー博士は説明する。
欧州全体の下水を監視するシステムを構築する計画もある。2022年10月、欧州委員会は都市部の下水処理に関する法律を改正し、薬剤耐性菌の監視を盛り込むことを提案した。現行の改正案では「都市部の下水中に含まれる薬剤耐性菌の存在について、将来的に適切な対策を講じる可能性も視野に入れ、さらなる理解を深めるために監視を義務付けることが必要である」と記されている。
こうしたデータの使い道はいくつか考えられる。医師がどの抗生物質を処方するかを決める際の参考になるかもしれない。
現在、多くの抗生物質の処方は、基本的にどの薬が効果がありそうかという推測に頼っている。理屈としては、病院で感染症患者の体液サンプルを採取して検査機関に送れば、検査機関で細菌を増殖させてどの抗生物質が最も効果があるかを調べることができる。しかし実際には、なかなかそうはいかない。多くの場合、医師は検査に要する1日〜2日を待てないからだ。たとえば、敗血症で瀕死の状態にある人には、すぐに抗生物質を投与する必要がある。
そのため、医師は広域抗生物質という、さまざまな種類の細菌を殺すことができる強い薬剤に頼ることとなる。しかし、こうした薬は最後の手段とすべきものだ。細菌が変異して広域抗生物質に対する耐性を獲得ししてしまうと、危険なものとなり、治療すらできなくなる可能性もあるからだ。
下水を監視することで、どの地域でどんな細菌が蔓延しているのか、そしてその細菌にはどの抗生物質が有効なのかが分かるかもしれない。また、特定の種類の抗生物質への耐性をもたらす遺伝子が増えていることに気づくことができれば、科学者は対象地域の医師にその抗生物質の処方を避けるようアドバイスできるかもしれないとカービー博士は説明する。
また、水質を監視することによって、薬剤耐性遺伝子がどの程度、環境を汚染しているかを調べることもできる。「抗生物質の投与を受けると、最大でそのうちの90%が糞尿として排出され、下水に流れ込む可能性があります」とレナード講師は指摘する。その下水の一部が、川や湖、海に流出する可能性も考えられる。
つまり、人間が環境中に薬剤耐性菌をまき散らしている恐れがあるばかりか、表流水や動物の生息域で新たな薬剤耐性菌への変異を促進している可能性もあるのだ。そして、こうした細菌、あるいは少なくともその薬剤耐性遺伝子が、再び人間の体内に入り込もうとしてもおかしくない。
レナード講師は、イングランド、ウェールズ、北アイルランドの沿岸海域に存在する薬剤耐性菌について調査している。その結果、サーファーなど海中で過ごす時間が長い人ほど、腸内に抗生物質耐性細菌を保有している可能性が高いことが分かった。海で泳ぐ人は、「泳がない人に比べて、耐性菌を3倍も多く持っている可能性があります」と説明する。
それは、あまりいい知らせではない。薬剤耐性を持つ細菌自体が病気の原因にはならないとしても、人間の腸内にいる他の細菌と遺伝子を交換する可能性があることを考えればなおさらだ。その結果、何らかの有害な薬剤耐性菌が誕生するかもしれないのだ。
私の新型コロナウイルスの検査結果は陰性だった。おそらく、ごくありふれた風邪なのだろう。私の腸内、そして身体全体に何十億という微生物が生息していることは分かっていたが、その中には抗生物質に対して耐性を持つものもあるだろう。こうした細菌が、有害なものに変異しないよう祈るばかりだ。
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新型コロナウイルス感染症への対策には、あらゆる資源を集中させることと、決断力、そして莫大な資金が必要となる。同様のアプローチで、薬剤耐性菌への対策も進めるべきだ。マリーン・マッケンナが2021年に執筆した記事はこちら。
2050年までに薬剤耐性菌は、がんよりも多くの人の命を奪うようになるかもしれない。世界経済にかかるコストは、その時点までに100兆ドルに達すると予測されている。マイケル・ライリーが2016年に執筆した記事はこちら。
また別の科学者は、抗生物質の代わりとなるものを探している。有害な細菌を自滅させるよう設計したクリスパー(CRISPR)錠剤が有効かもしれないと期待する者もいる。2017年のエミリー・マリンによる記事はこちら。
昨年、M痘(旧サル痘) の感染状況を追跡するために下水監視システムが使われ、カリフォルニア州のベイエリアでどれくらいの人が感染しているかを科学者が推定する助けとなった。ハナ・キロによる報告はこちら。
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- ジェシカ・ヘンゼロー [Jessica Hamzelou]米国版 生物医学担当上級記者
- 生物医学と生物工学を担当する上級記者。MITテクノロジーレビュー入社以前は、ニューサイエンティスト(New Scientist)誌で健康・医療科学担当記者を務めた。