KADOKAWA Technology Review
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浅川智恵子・AIスーツケース発案者が挑む「社会実装の壁」
写真:曽根田元、ヘアメイク:槌田美希
Chieko Asakawa's trying to break down the social implementation barriers

浅川智恵子・AIスーツケース発案者が挑む「社会実装の壁」

IBMフェローとして実社会でのアクセシビリティ研究、視覚障害者のためのナビゲーションロボット「AIスーツケース」の開発・社会実装を進めながら、2021年には日本科学未来館館長に就任した浅川智恵子氏に、イノベーションで大事な考えについて聞いた。 by Yasuhiro Hatabe2023.08.10

MITテクノロジーレビューが主催する世界的なアワードの日本版「Innovators Under 35 Japan(イノベーターズ・アンダー35ジャパン)」が、「コンピューター/電子機器」、「ソフトウエア」、「インターネット」、「通信」、「AI/ロボット工学」、「輸送/宇宙開発」、「エネルギー/持続可能性」、「医学/生物工学」の8分野で、候補者の推薦および応募を受け付けている。締め切りは8月15日(火)まで。事前審査を経て、書類による専門家審査によって本年度のイノベーターが決定される。

本アワードの審査員の1人である浅川智恵子氏は、日本IBM東京基礎研究所に入社後、デジタル点字編集・共有システムの開発に従事。点字図書をデジタル化し、日本全国の点字図書館にネットワーク経由でダウンロードできるようにした。現在は、IBMフェロー、HCI(ヒューマン・コンピューター・インタラクション)研究者として実社会でのアクセシビリティ研究、AIスーツケースの開発を進める一方で、日本科学未来館館長として日本のイノベーションを促進するための場づくりに取り組んでいる。浅川氏がイノベーションを起こす上で大事だと思っていることは何か。話を聞いた。

◆◆◆

視覚障害者のナビ「AIスーツケース」を開発

──現在、取り組まれている活動についてご紹介いただけますか。

浅川智恵子(Chieko Asakawa)
日本科学未来館館長
IBMフェロー

東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程を修了、工学博士。小学生時代のけがが原因で、中学2年で失明。1985年に日本IBM東京基礎研究所入社後、デジタル点字編集・共有システムを開発。1997年、世界で初めての実用的な音声WEBブラウザー「ホームページリーダー」を開発。2009年、IBMフェロー。2013年、紫綬褒章受章。2014年から米カーネギーメロン大学IBM特別功労教授。2018年、米国IBM T.J.ワトソン研究所に転籍。2019年、全米発明家殿堂入り。2021年4月に日本科学未来館の館長に就任。

2つあります。1つはIBMフェロー、研究者として実社会におけるアクセシビリティの研究。もう1つは、日本科学未来館館長としての活動です。

実社会のアクセシビリティ研究の代表的なものとして、「AIスーツケース」という視覚障害者のためのナビゲーションロボットの研究を進めています。この取り組みは、単にロボットを開発して終わるものではなく、AIやロボティクス、各種センサーなど最先端のテクノロジーを統合する形で実現しようとしています。

このナビゲーションロボットをスーツケース型にしている理由は、「1歩先」の安全性を確認できるからです。目が見えない場合、段差や壁に気づくことができずに不安を感じます。スーツケースと一緒に歩くと、スーツケースが先に段差や壁にぶつかります。視覚障害者が普段使っている白杖、それから盲導犬に共通した役割を担っているのです。

ウェアラブルにしないのか? と聞かれることがありますが、そうすると自分の「1歩先」を物理的に確認できなくなってしまいます。テクノロジーが進化するように、AIスーツケースの進化も半永久的に続きますから、将来的にはウェアラブルになるかもしれません。しかし、今の時点でスーツケース型はなかなか良いアプローチだと思っています。

──AIスーツケースはどのような構造になっているのでしょうか。

AIスーツケースは市販のスーツケースに改造を施して試作しています。スーツケースの上にはLiDARとRGB-D(深度)カメラを搭載し、周囲の障害物や歩行者を認識します。スーツケースの中には、画像処理のためのコンピューター(GPU)と、地図や経路の管理、自己位置測定、スマートフォンとのインターフェースを管理するコンピューターを搭載しています。ハンドルの下側にタッチセンサーがあり、握るとスーツケースが動き出し、手を放すと止まります。

屋内に関しては、地図を準備して使用できる環境にあれば、実用レベルにかなり近づきました。これをさらに社会実装するために、運営上の課題やメンテナンスの問題をクリアし、さらにビジネスという形で広げていかなければなりません。スーツケース型ロボットと視覚障害者が一緒に歩くという新たな風景を、人々や社会がどのように受け入れられるかが大きな課題となっています。

白杖を持っていれば視覚障害者だと認識されますが、通常のスーツケースを持っている人も多くいる中で、AIスーツケースと一緒に歩いていても視覚障害者だと認識されにくい。そのことでどういう問題が起きるのか、あるいは起きないのか。この視覚障害者だと判別できないことが良いのか、良くないのかという議論は、新しい技術を社会に実装しようとする際に必ず起こる論点です。

私はこうした課題を「社会実装の壁」と呼んでいます。イノベーションを起こすためにはどれ1つとして避けて通れません。AIスーツケース自体の研究開発も続いていきますが、それと合わせて、社会実装する上での課題に対する取り組みも同時に進めているところです。

AIスーツケーツの構造を説明する浅川氏。AIスーツケースは、事前に登録しておいた目的地まで、振動や動きで進む方向を誘導してくれる。それに加えて、通路を認識し、自らボタンを操作して進みたい方向にスーツケースを動かす機能も現在研究中。

日本科学未来館を未来社会の実験場に

──もう1つの活動の軸である日本科学未来館館長としての取り組みについて教えてください。

新しく日本科学未来館のビジョンを公開しました。「あなたとともに『未来』を作るプラットフォーム」というものです。これには、未来館という場をプラットフォームとして人と人をつなげ、新しい科学技術の進化と社会実装を加速させる意味を込めました。イノベーションを起こしにくい国だと言われている日本で、もっとイノベーションを、社会実装を促進したいという思いは、2年前に館長に就任した1つの理由でもありました。

今、未来館では、未来を考える「入口」として、4つの領域に取り組んでいます。「Life(ライフ)」「Society(ソサイエティ)」「Earth(アース)」「Frontier(フロンティア)」の4つです。これらをテーマにしたシリーズ企画「Mirai can NOW」を立ち上げ、現在は「どうする!? プラごみ」を開催しています。

そして2023年11月22日に、3つのテーマ「ロボット(Society領域)」「地球環境(Earth領域)」「老い(Life領域)」に関する新しい常設展示を公開します。3つを同時に立ち上げるのは、未来館としても7年ぶりのチャレンジになります。

先端科学技術がもたらす社会の未来像や課題を「自分のこと」として捉えてもらい、今の自分たちに何ができるのか、課題を解決していくためにはどのような科学技術が必要なのかを、体験型の展示やイベント、ワークショップ、科学コミュニケーターとの対話を通じて、来館者の方やオンラインでつながる皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。

未来館を、イノベーションを起こすための未来社会の実験場にしたいと考え、この2年間はその方向で進めてきました。2025年に開催される大阪・関西万博も未来社会の実験場を目指していますが、半年間の期間限定です。それに対して未来館は、長期的かつ継続的にイノベーションの社会実装を加速させられる実験場でありたいと考えています。

アクセシビリティを革新する生成AI

──AIやロボティクス、情報科学分野で、注目している技術はありますか。

情報のアクセシビリティに始まり、実社会のアクセシビリティへと研究領域を広げてきましたが、私の専門としてはHCIの研究者です。ですからアクセシビリティ・HCI研究手段としてAIやロボティクスを応用しています。

アクセシビリティの研究者として今注目しているのは、やはり生成AIですね。自分でチャットGPTを使ってみて、できることのレベルが一気に上がったと感じました。アクセシビリティ分野に応用すると、これまでできなかったことができるのではないかという期待があります。今は生成AIを使ったアイデアがいろいろ出てきているタイミングで、今後、論文が数多く出てくると予想しています。

──例えば具体的にどういう応用ができそうでしょうか。

まずは画像の説明、シーンキャプショニングですね。4年前にポルトガルへ行く機会があって、リスボンの写真をいくつか撮りました。当時のシーンキャプショニングエンジンで説明させたところ、出てきたのは「道路を電車が動いていて、その後ろに建物がある」くらいの説明でした。

ところがこの間、生成AIを活用した最先端のシーンキャプショニングで同じ写真を説明させてみたところ、「路面電車」や「石畳」といった、より具体的にそのものを表す単語を使って、自然な説明になっていました。

画像を説明できれば、さらにその先にいろいろな応用が考えられます。例えば、私がプレゼンをする場合、スライドは他の研究者に準備してもらっています。その場合、私の伝えたいことにマッチする画像を探してきてくれたりするわけです。それが生成AIで画像が生成されるようになる。

生成AIで要約も飛躍的に発展しましたよね。Webの登場で、いろいろな情報にアクセスできるようになったことは革新的でしたが、情報量が膨大になり、必要な情報を探し出すのが大変になってきました。それに加えてアクセシビリティの問題もあり、視覚障害者が必要な情報にたどり着くのは容易ではありません。ですが、生成AIなら、必要な情報を適度に要約してくれます。視覚障害者の情報アクセシビリティにおいても、また実社会のアクセシビリティにおいても、生成AIを利用できる場面は多いと考えています。

一方、日本の社会課題として高齢化が挙げられます。昔の60歳と今の60歳を比べると、今の人のほうが若さを保っていますが、視覚、聴覚、筋力、記憶力を含め、人間は衰えていきます。テクノロジーでそれをどう補うか。記憶力はAIが補完することができるでしょう。視覚障害の研究も、高齢者のアクセシビリティの改善につながります。テクノロジーの可能性を常に意識して、人をポジティブにする研究が必要だと考えています。

イノベーションは考えているだけでは起こらない

──浅川先生が考える「イノベーター」の条件とは何でしょうか。Innovators Under 35 Japanに応募する人へのメッセージをお願いします。

イノベーションを起こすには、まずニーズを見つけ出さなくてはなりません。見つけ出すためには、多様な視点が絶対に重要です。イノベーションのきっかけは、身近な日常生活の中にあるかもしれないし、社会課題の中にあるかもしれない。ミクロの領域からマクロな世界まで幅広く関心を持って、きっかけをつかむことがまず大事です。

そしていろいろな課題をどうしたら解決できるだろうという問題意識を常に持ち続けること。ただ、考えているだけでは何も起こりません。課題を解くために具体的にどのような解決策があるのか、応用できる技術としてどのようなものがあるのかを調べて研究し、開発、実験を経て最終的には社会実装まで持っていく。そうした一連のことを、諦めずにやり抜くことが、イノベーターの条件だと思います。

私が30代の頃にデジタル点字編集・共有システムを開発したときは、最初は使う人がいませんでした。社会実装するために、全国の点字図書館にパソコンを無償で提供するようにIBM社内で働きかけました。社会に貢献することができて、IBMにとっても重要なプロジェクトになったと思っています。

──先生が以前、「若いときは何でもチャンスだととらえて貪欲に取り組んでいた」とおっしゃっていたのが印象に残っています。

そうですね。チャレンジすることによって、今自分がやっていることが整理できますし、審査の段階でいろいろな人にも見てもらえるので、研究や取り組みをバージョンアップできるとても良い機会だと思います。自分のイノベーションは未熟だとかそういうふうに捉えず、ぜひ自信を持って、どんどん応募してください。そして、多様性の大切さをより多くの人々と共有していただきたいと思います。

多様な方々に、多様な視点で取り組んでいるプロジェクトをぜひ応募していただきたいですね。ただ1人ですべてに取り組む必要はありません。チームをまとめて、プロジェクトを進められるのもイノベーターだと思います。

(取材協力:日本IBM)


MITテクノロジーレビューは[日本版]は、才能ある若きイノベーターたちを讃え、その活動を支援することを目的とした「Innovators Under 35 Japan」の候補者を募集中。詳しくは公式サイトをご覧ください。
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畑邊 康浩 [Yasuhiro Hatabe]日本版 ゲスト寄稿者
フリーランスの編集者・ライター。語学系出版社で就職・転職ガイドブックの編集、社内SEを経験。その後人材サービス会社で転職情報サイトの編集に従事。2016年1月からフリー。
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