KADOKAWA Technology Review
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行き場なき凍結胚、
IVFの普及で膨らむ
「生命の可能性」の重み
Alamy (left), Getty Images (right)
生物工学/医療 Insider Online限定
Inside the strange limbo facing millions of IVF embryos

行き場なき凍結胚、
IVFの普及で膨らむ
「生命の可能性」の重み

世界で数百万個とも推定される凍結胚が保管され続けている。体外受精の技術向上と普及に伴い、その数は年々増加の一途をたどる。処分か保管継続か、研究利用か他者への提供か——。生命の可能性を秘めた胚の処遇を巡り、難しい判断を迫られている。 by Jessica Hamzelou2025.01.28

この記事の3つのポイント
  1. IVF技術の発展と普及により世界中で余剰胚が大量に作られている
  2. 凍結保存タンクに保管されている胚は数百万個を超えると推定される
  3. 胚の道徳的地位や法的分類をめぐり議論が続くが当面解決は難しそうだ
summarized by Claude 3

リサ・ホリガンがもう1人子どもを持とうと決めたとき、彼女にはすでに2人の子どもがいた。最初の2回の妊娠はすんなりといった。しかし、3回目は、なぜかうまくいかなかった。ホリガンと夫は、何度も流産を経験した。

不妊に悩む多くの人々と同様に、ホリガンは体外受精(IVF)に頼ることにした。この技術では、胚培養士が精子と卵子を採取し、体外で受精させて胚を作成し、それを子宮に移植する。

ホリガンの治療を担当した不妊治療クリニックは、彼女の卵子と夫の精子を用いて6個の胚を作成した。遺伝子検査の結果、そのうち3つだけが「遺伝的に正常」であることが判明した。最初の胚が移植されると、ホリガンは妊娠した。しかし、またしても流産した。「何も感じられなくなりました」と、彼女は当時を振り返る。しかし、数カ月後に実施された2回目の移植は成功し、その結果生まれたクインは今年2月で4歳になる。「彼女は私たちの人生の光です」と、ホリガンは語る。

英国に住むホリガンは、自分の「遺伝的に異常な」胚を科学研究のために寄付することを決めた。しかし、彼女はまだ1つの健康な胚を凍結保存しており、それをどうするべきか決めかねている。

他の家庭に提供すべきか? 廃棄すべきか?「もうすぐ4年になりますが、まだ何も決められていません」とホリガンは言う。クリニックも助けにはならなかった。ホリガンは当時、残った胚の扱いについて話した記憶がなく、クリニックからも何年も連絡がないという。

この奇妙な宙ぶらりん状態に置かれているのは、ホリガンの胚だけではない。IVFによって作り出された数百万個、あるいは数千万個の可能性もある胚が、世界中の凍結保存タンクの中で凍結されたまま保管されている。技術の進歩、IVFの普及、成功率の向上によって、その数は増え続ける一方だ。

基本的なレベルでは、胚は100個ほどの細胞が集まった小さな球にすぎない。しかし、他の種類の身体組織とは異なり、胚は生命の可能性を秘めている。このため、胚には特別な道徳的地位があり、特別な保護が必要だと主張する人も多い。問題は、その道徳的地位が何なのかについて、誰も一致した意見を持っていないことだ。ある人々にとって、胚は単なるヒトの細胞に過ぎない。しかし、別の人々にとっては、胚は道徳的に子どもと同等の存在である。多くの人は、胚はこの2つの極端な見解の間のどこかに位置すると考えている。

胚を法律上どのように分類するべきかについても議論がある。胚は所有物なのか? 法的な地位を持つのか? これらの疑問は重要である。胚の使用権や、損傷した場合の責任、胚の最終的な処遇を決定する権限をめぐり、これまでに何度も法的論争が起こっている。その答えは、科学的要因だけでなく、倫理的、文化的、宗教的要因にも左右されるだろう。

この混乱は、残されたIVF胚を持つ人々に提供される選択肢にも反映されている。英国に住むホリガンの場合、自分の胚を廃棄するか、他の希望者に提供するか、研究に寄付するかを選ぶことができる。米国では「養子縁組」の選択肢もあり、親が選んだ家族に胚を託すことができる。ドイツでは、胚の凍結保存自体が一般的に認められていない。イタリアでは、IVFで作成された胚は、意図された親が使用しなかった場合でも、廃棄や寄付が認められず、凍結されたまま維持されなければならない。

それらの胚が仮死状態で維持されている間に、患者、臨床医、胚培養士、そして立法者たちは、それらをどうすべきかという根本的な問題に取り組まなければならない。これらの胚は私たちにとってどのような意味を持つのか? 誰が責任を負うべきなのか?

一方、同じ関係者の多くが、保管されている胚の総数を減らす方法を模索している。凍結胚の維持には高額なコストがかかる。保管スペースが不足しつつあるクリニックもある。また、保管する胚の数が増えれば、人為的ミスが発生するリスクも高まる。関係者たちは、行き場のないまま保管され続けている胚の増加にどのように対処すべきか、解決策を模索している。

胚ブーム

この問題がこれほど複雑になった理由はいくつかあるが、その多くは結局のところ、IVFの需要増加とその実施方法の向上に起因している。「これは私たち自身が生み出した問題なのです」と、マサチューセッツ州にあるボストンIVF(Boston IVF)の生殖内分泌学者、ピエトロ・ボルトレットは指摘する。IVFの成功率が今日のように高まったのは、「その過程で大量の余剰卵子や胚を作り出してきたからにほかならない」と、ボルトレットは説明する。

妊娠を成立させ、子宮内で順調に発育する健康な胚を得る可能性を最大化するため、クリニックは複数の卵子を採取することを目指す。IVFを受ける人は通常、卵巣を刺激するホルモン注射を受ける。その結果、通常は1個しか排卵されない卵子が、7~20個ほど採取できることが期待される。これらの卵子は、膣を通して卵巣に挿入された針を使って採取される。その後、採取された卵子は研究室に運ばれ、そこで精子と受精させられる。IVFに用いられた卵子のうち、約70~80%が受精し、胚が形成される。

その後、胚は研究室で培養される。約5~7日後、胚は胚盤胞と呼ばれる発育段階に達し、子宮に移植する準備が整う。しかし、すべてのIVF胚がこの段階まで発育するわけではない。胚のうち、5日目まで到達するのは約30~50%程度にとどまる。この過程で、生存可能な胚が1つも残らない場合もあれば、逆に10個以上残ることもある。通常、1回の妊娠試行につき移植されるのは1個の胚のみである。典型的なIVFサイクルでは、1個の胚が「新鮮な」状態で子宮に移植され、残りの胚は凍結保存される。

IVFの成功率は時代とともに上昇しているが、その理由は主に、この保存技術の向上にある。10年ほど前までは、多くの胚培養士が「緩慢凍結」技術を用いていたが、この方法では多くの胚が凍結プロセスに耐えられなかったとボルトレットは説明する。現在では、胚は「ガラス化法(ビトリフィケーション)」という技術を用いて、液体窒素を使い、室温から-196℃へと2秒未満で急速冷却される。このガラス化によって、胚内の水分が氷の結晶を形成するのを防ぎ、胚にダメージを与えずに保存できるのだ。

現在、多くのクリニックが「全胚凍結」アプローチを採用している。この方法では、生存可能なすべての胚を一旦凍結保存し、後で移植する。場合によっては、移植予定の胚に遺伝子検査を実施する機会を確保するために、この手法が採用されることもある。

実験室で育てられた胚は、7日ほど経つと、着床前遺伝学的検査(PGT)のために数個の細胞を取り出せるようになる。この検査では、健康な発育を妨げる可能性のある遺伝的要因や、生まれた子どもが遺伝性疾患を持つリスクを調べる。米国ではPGTの利用が増えており、2014年には体外受精の13%でPGTが実施されていたが、2016年にはその割合が27%にまで上昇した。PGTを受ける胚は、通常1~2週間かかる検査の間、凍結保存される必要があるとボルトレットは説明する。「検査結果が返ってくるまで、胚を成長させ続けることはできません」。

さらに、胚の保存期間には実質的な制限がないようだ。2022年には、オレゴン州のあるカップルが、30年間凍結されていた胚から生まれた双子を授かった。

これらの事実を総合すると、保管されている胚の数がどれほど急速に増えているかが容易に理解できる。私たちはこれまで以上に多くの胚を作り、保存しているのだ。さらに、IVFの需要が年々増加していることを考慮すれば、凍結保存タンクに保管されている胚の数が数百万個に上ると推定されるのも驚くことではないだろう。

「推定」と言うのは、実際の数を誰も正確に把握していないからだ。。2003年、米国の不妊治療クリニックを対象とした調査の結果から、保管されている胚の数は約40万個と推定された。それから10年後の2013年には、別の研究者グループが、米国全体で凍結保存された胚の累計数は約140万個に達すると推定した。しかし、その後カナダ・オンタリオ州のウォータールー大学の政治学者アラナ・カッタパンらは、この推定に欠陥があることを指摘し、2015年の論文でその数は400万個に近い可能性があると発表した。

ただし、これは10年前の推定値である。現在、米国にどれくらいの数の胚が保存されているのかを胚培養士たちに尋ねたところ、回答は100万個から1000万個の範囲にわたった。ボルトレットは、その数を500万個程度と見積もっている。

世界全体では、この数字はさらに大きい。肉眼では見えない何千万個もの胚が、仮死状態のまま存在している可能性がある。数カ月、数年、あるいは数十年にわたって保存されるものもあれば、無期限に保存されるものもある。

宙ぶらりんのまま

理論上、IVFによって作られた余剰胚を持つ人には、いくつかの選択肢がある。他の人が使用できるように胚を提供することも可能で、多くの場合、匿名で寄付することができる(ただし、遺伝子検査によって、生まれた子どもの生物学的親が特定される可能性がある)。また、研究目的で胚を寄付することもできる。あるいは、廃棄することも選択肢の一つだ。胚を廃棄する方法の一つとして、空気にさらして細胞を死滅させる方法がある。

研究によると、凍結保存された胚を持つ人の約40%が、この決断に苦しみ、多くの人が5年以上も決定を先延ばしにしているという。どの選択肢も魅力的に思えない人もいる。

実際のところ、利用可能な選択肢は住んでいる地域によって大きく異なる。そして、多くの選択肢が結局は「宙ぶらりん」な状態につながることになる。

例えばスペインは、IVFのコストが他の西欧諸国よりもはるかに低いこともあり、欧州の不妊治療の中心地となっていると、アルゼンチン・ブエノスアイレスにある卵子・精子保管施設「ニューライフ・バンク(New Life Bank)」の運営責任者であり、欧州不妊治療学会(European Fertility Society)の副会長も務めるジュリアナ・バチーノは指摘する。スペインは運営コストが低く、約330のIVFクリニックが存在しており、競争が活発だ(比較として、米国には約500のIVFクリニックがあるが、米国の人口はスペインの約7 …

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