鏡像生命に沸いた科学者
「世界の終わり」を見たとき
何をすべきなのか
「これはすごい」。2019年、科学者たちは生体分子を鏡写しに反転させた「鏡像生命」の構想に沸いた。だが研究が進むほど、彼らは別の可能性に気づく。天敵も免疫も持たない鏡像生物は、地球の全生命を滅ぼしかねない——。実現性にはなお議論があるが、自らの研究に終末の影を見た科学者はどう向き合うべきなのか。 by Stephen Ornes2026.06.04
- この記事の3つのポイント
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- 鏡像生物研究は当初、医薬品開発や生命科学の知見拡大として期待されたが、5年後に研究者自身が存亡リスクと認識するに至った
- 鏡像微生物は免疫系のキラル感知受容体を回避し、天敵なしに増殖する可能性があるため、制御不能な感染拡大を引き起こしかねない
- ユネスコなどがモラトリアムを勧告する一方、リスクの実証的検証は困難であり、研究の許容範囲と執行主体をめぐる国際的合意は未形成のまま
2019年2月の4日間、約30人の合成生物学者と倫理学者が米バージニア州北部の会議施設にこもり、米国立科学財団(NSF)が資金提供すべき、ハイリスクで最先端かつ非常に魅力的な研究アイデアについて集中的に議論した。
会議の終わりまでに、彼らは有力な候補として「ミラー」バクテリア(鏡像細菌)を作るという考えに行き着いた。もしそれが実現すれば、実験室で作られた微生物は、通常のバクテリアと同様の構造や組織を持つことになる。ただし、重要な違いが一つある。それは、タンパク質や糖、脂質といった主要な生体分子が、鏡に映ったように、自然界に存在するものの逆向きになっている点である。DNAやRNAをはじめ、生体細胞を構成する多くの要素はキラル、すなわち固有のねじれ構造を持っている。鏡像生命体は、これとは反対方向のねじれを持つことになる。
研究者たちはその可能性に興奮した。「誰もが、ひとり残らず、これはすごいと思いました」とジョン・グラス教授は言う。彼はカリフォルニア州ラホヤにあるJ・クレイグ・ベンター研究所の合成生物学者で、2019年のこのワークショップに参加した合成細胞の開発分野の先駆者である。それは「極めて困難なプロジェクトですが、細胞を設計して作る方法や、地球上の生命の起源について、私たちに新たな知見をもたらす可能性があります」。そのグループは、医学においける大きな可能性も見いだしていた。鏡像微生物は生体工場として設計され、鏡像分子を生産するようになるかもしれない。そうした分子は、新しいタイプの医薬品の基盤となる可能性がある。理論上、こうした治療薬は自然界に存在するものから作られた治療薬と同様の機能を果たしながらも、望ましくない免疫反応は引き起こさないという可能性がある。
会議の後、生物学者たちはNSFに対し、いくつかの研究グループがツールの開発や予備的実験を実施できるよう資金提供するよう提言した。それは『鏡の国』への旅の始まりでもあった。興奮は世界中に広がっていた。中国の国家自然科学基金委員会はミラー生物学における主要プロジェクトに資金を提供し、また、ドイツ連邦研究・技術・宇宙省も同様に支援した。
それから5年後の2024年までには、そのNSFの会合に関わっていた多くの研究者が方針を転換していた。最悪のシナリオでは、鏡像生物が地球上のあらゆる生命を脅かす壊滅的な事態を引き起こしかねないと、研究者たちは確信するようになっていたのだ。というのも、その生命体は天敵なしに増殖し、人間や植物、動物の免疫防御を回避してしまう可能性があるからだ。
この2年間、研究者たちは警鐘を鳴らしてきた。研究者たちは2024年12月、学術誌『サイエンス(Science)』に論文を発表し、実現可能性とリスクを検討した299ページに及ぶ技術報告書もあわせて公表した。研究者たちはエッセーを書き、パネル討論を開催し、リスクに対する理解と対処を支援する非営利団体「ミラー・バイオロジー・ダイアローグズ基金(MBDF:Mirror Biology Dialogues Fund)」を共同設立した。この問題はメディアからの強い関心を集め、化学者や合成生物学者だけでなく、生命倫理学者や政治家たちの間でも議論を活発化させている。
しかし、あまり注目されなかったのは、ここに至るまでの経緯や、潜在的脅威に関してどのような不確実性が今も残っているのかという点だ。
鏡像生物を作り出すことは、極めて複雑で費用も莫大になる。また、科学界はこの警告を深刻に受け止めているものの、そもそも近い将来に鏡像生物を作り出すことが可能なのか疑問視する研究者もいる。「鏡写しの生物の仮想的な創出は、現在の科学の到達範囲をはるかに超えています」。中国の西湖大学で鏡像ペプチドなどの分子の合成を研究する分子生物学者、チュー・ティン(朱聴)教授は言う。朱教授や他の研究者たちは、憶測や不安に基づいて意思決定をするべきではないと同僚に呼びかけるとともに、医療上の利益をもたらす可能性があるとされる初期段階の研究について、広範なモラトリアム(研究停止)を求めるのは時期尚早だと主張している。
しかし、警鐘を鳴らしている研究者たちは、鏡像生物の実現へと導く道筋、それも複数の道筋が存在し得ると指摘している。そして、どのような鏡像生物学の研究ならまだ安全といえるのか見極めるためのガードレールを早急に整備する必要があると訴えている。それは、彼らが過去数十年の間に何度も繰り返し提起され、結果も一様ではなかった問いに直面していることを意味する。それはすなわち、科学的方法の枠内にすっきりと収まらない問いである。自らの研究の中に世界の終わりの影を見いだしたとき、科学者は何をすべきなのか。
鏡像生命
フランスの化学者で微生物学者のルイ・パスツールは、生体分子には「利き手」の性質が組み込まれていることを最初に見いだした人物だ。19世紀後半、パスツールはすべての生物種を「宇宙的な非対称性の表れ」であると表現した。もしこうしたキラル(左右非対称)な構成要素を、その鏡像に置き換えることができたなら、いったい何が起こるのだろうか。パスツールはそう思いを巡らせた。
今日では、キラリティ(鏡像関係にある構造の)が生命そのものにとって中心的な性質であることが科学者たちに認識されているが、その理由は誰にも分かっていない。人間について言えば、タンパク質を構成するいわゆる「標準的な」20種類のアミノ酸のうち19種類がキラルであり、しかもその向きはすべて同じである。(例外であるグリシンは、左右対称である)タンパク質の機能はその形状と密接に結びついており、主にキラルな構造を通じて他の分子と相互作用する。
細胞の表面にある受容体のほとんどはキラルである。感染時には、免疫系の監視役がキラリティを利用して、免疫反応を引き起こす物質である抗原を検出・結合し、抗体を作り出すプロセスを開始する。
20世紀後半までに、研究者たちはキラリティを反転させるという発想を探り始めていた。1992年には、ある研究チームが、初の鏡像タンパク質の合成に成功したと報告した。それが、リスクに関する最初の警鐘を鳴らすきっかけとなった。つまり、この発見を受けてパデュー大学の化学者たちが簡潔に指摘したように、もし鏡像生命体が研究室から外へ漏れ出した場合、それは「通常の」生命からのいかなる攻撃にも免疫を持つことになるという。ワイアード(Wired)の2010年の記事は、この分野の初期の研究成果を紹介し、その中で、もしそのような微生物が光合成する能力を獲得すれば、私たちが知る生命を壊滅させる可能性があると指摘している。
当時、合成生物学コミュニティはそのような脅威を真剣に検討していなかったと、スタンフォード大学で感染症と微生物学を専門とし、腸内および口腔マイクロバイオーム研究の先駆者でもある専門家デイビッド・レルマン教授は語る。鏡像微生物という発想は、タンパク質研究の実際の進展から見てあまりにもかけ離れているように思われた。「これは20年前には、ほぼ純粋に理論上の議論でした」(レルマン教授)。
現在では、研究の状況は変化している。
科学者たちは、細胞がタンパク質を作り出して自己複製をするために用いる仕組みの鏡像について、急速に研究を進めている。それらの構成要素には、タンパク質の設計図をコード化するDNA、遺伝物質の複製を助けるDNAポリメラーゼ、そして遺伝情報を細胞内のタンパク質工場であるリボソームへ運ぶRNAが含まれる。もし研究者たちが自己複製する鏡像リボソームを作ることができれば、鏡像タンパク質を効率的に生産する手段が得られることになるだろう。それは、治療薬を作るための生物学的な製造手法として利用できる可能性がある。しかし、自己複製し代謝を行なう合成細胞の中に組み込まれれば、これらすべての要素が組み合わさって鏡像微生物が生まれる可能性がある。
2019年にバージニア州北部に合成生物学者たちが集まった際、彼らはテクノロジーがどれほど急速に進展しているか十分に認識していなかった。たとえ脅威を認識していたとしても、それは科学を前進させようとする強い魅力によって見えにくくなっていた可能性がある。今明らかになっているのは、グラス教授によれば、鏡像生命に関連するそれぞれ異なる分野の科学者たちが、互いに他の研究者が何をしていたのかをほとんど把握していなかったということだ。合成生物学者が自然界と同じキラリティを持つ鏡像細胞の創出に関してゼロからスタートし、これほどまでの進展を遂げていたことを、化学者たちは知らなかった。
生物学者たちは、化学者がますます大きな鏡像高分子を構築していることを十分に認識していなかった。「私たちはサイロ化してしまう傾向があります」とグラス教授は語る。そして、これまでの研究に対してすでに提起されていた免疫系への懸念について、誰も本格的に検討しようとはしていなかったと、グラス教授は言う。「その場には、免疫学者も感染症の専門家もいま …
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