井上浩輔:「誰に効くか」で医療資源の配分を問い直す研究者
京都大学大学院医学研究科の井上浩輔教授は、「治療効果の高い人」に優先的に介入する「高ベネフィットアプローチ」の提唱者として、研究の深化と社会への浸透に取り組んでいる。 by Yasuhiro Hatabe2026.04.14
誰に、治療を届けるべきか? その問いを起点に「高ベネフィットアプローチ」を提唱した井上浩輔は、2023年に「Innovators Under 35 Japan(35歳未満のイノベーター)」の1人に選ばれた。医療や公衆衛生の世界では長らく、将来的に病気になるリスクが高い人を特定し、その人たちに集中的に介入する「高リスクアプローチ」が主流だった。たとえば健康診断の検査値をもとに糖尿病や高血圧のリスクが高いと判断された人たちに、生活指導をしたり薬剤を処方したりする、といった具合だ。しかし、リスクが高い人と、治療の効果が大きい人は、必ずしも一致しない。
効果で選ぶ、という発想の転換
井上が、津川友介氏(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)、スーザン・エイシー氏(スタンフォード大学)とともに提唱した高ベネフィットアプローチは、この前提を覆すところから生まれた。リスクの高さではなく、介入によって得られる効果(ベネフィット)の大きさで対象者を特定し、より効率的かつ公正な医療資源の配分を目指すアプローチだ。経済学で開発された機械学習モデル「因果フォレスト」を用いて個人レベルの治療効果を推定するこの手法は、高血圧の領域での検証において、従来の高リスクアプローチを大きく上回る効率性を持つことが明らかになった。
効果の高い人だけを優遇するのではないか、という懸念に対して、井上はこう説明する。「選択肢がある中で、その人に最も効果的なものを選ぶということです。効果が低いと分かった人には、別の介入を考える必要があります」。この発想は健康格差の是正にもつながる。リスクが高いにもかかわらず効果が低い集団を特定することで、その集団に対して従来とは異なるアプローチを模索する契機になるからだ。
解釈可能性と政策応用、深まる研究
2025年8月、井上は京都大学大学院医学研究科健康増進・行動学分野の教授に着任した。高ベネフィットアプローチの研究は着実に深まっている。最終的にこのアプローチが目指すのは、たとえば健康診断の場で誰に介入すべきかを判断したり、医療政策として保険の対象をどう絞るかを決めたりする際に、実際の根拠として使われることだ。しかしそこに1つのジレンマがある。予測精度を高めるほどモデルは複雑になり、「なぜこの人に効果があるのか」を医師や政策立案者に説明することが難しくなるのだ。
そこで井上が取り組んでいるのが、解釈可能性の向上だ。機械学習による効果の推定結果を、人間が理解しやすいかたちに変換する実践的なフレームワークを提唱。予測精度を多少落としても解釈可能性を高めることが実装への道になる、という考えのもと開発されたこの枠組みを、井上と古村俊昌氏(ハーバード大学)らの研究グループは2025年3月に論文として発表した。
また、特定の集団に医療保険を提供することで健康状態が改善するかを検証した研究では、保険加入による恩恵を受ける集団を特定することに成功。この研究は2025年の米国大統領経済報告にも引用された。
『白い巨塔』が火をつけた、医師への道
井上が医学に興味を持ったのは、中学生のときに見たテレビドラマ『白い巨塔』がきっかけだった。患者を第一に考える誠実な医師と、卓越した技術と野心を持ちながらも組織の論理に生きる医師、対照的な2人が登場するこのドラマを、井上は2度見た。最初と2度目で惹かれる人物が変わったことが不思議で、原作小説を手に取った。そこで気づいたのが、高い技術力と患者への誠実さ、その両方を兼ね備えた医師こそが理想だということだった。その像に憧れ、医学部を志すようになった。
東京大学医学部に進学した井上は、そこで初めて「努力しても敵わない」と感じるほどすばらしい友人たちに出会った。その経験が大きな転機となり、自分の付加価値をどこに見いだすかを、真剣に考えるようになった。その答えを探すように、テーマパークのスタッフや鉄道会社での乗降補助など、さまざまなアルバイトを経験した。異なる立場や価値観を持つ人々との交流は、その後の井上の視野を広げ、研究者としての土台の一部になっている。
医師免許を取得してからは臨床の現場に立ち、患者と向き合い続けた。ガイドライン通りに治療しても効果が出ない患者がいる。同じ薬でも反応がまったく異なる患者がいる。その疑問に向き合ううちに、論文を読む力と、自分の疑問を研究に変える方法を身につけたいと考えるようになった。そこで決断したのが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)への留学だ。
当初は2年で帰国するつもりだったが、「因果推論」という学問に出会い、考えが変わった。原因と結果の関係を統計的に厳密に推定する方法論で、経済学や疫学の分野で発展してきたものだ。「これはおもしろい」という直感が、そのまま博士課程への進学につながり、経済学者との協働から高ベネフィットアプローチが生まれた。井上は、この経験を通じて「分野と分野のあいだを橋渡しする」という強みを身につけ、自覚するようになった。
自分の心に余裕を持つことが、チームを動かす
2025年8月に教授に着任して以来、井上がまず取り組んだことの1つが、研究室のリノベーションだった。はたから見れば研究とは直接関係のないことかもしれないが、「自分が心地よく研究できる環境を整えることで、仕事の速度と質が変わる」という確信がある。
研究者としてだけでなく、チームを率いるリーダーとして立場が変わった今、特に大切にしているのは、自分自身の心に余裕を持ち続けることだと井上は言う。「余裕がないときは、仕事のクオリティも落ちるし、周りへの接し方も雑になる。それが悪循環を生む。だから、余裕を失うような仕事は本当に必要なもの以外は避けるようにしています」。
研究者として多忙な日々を送りながら、週に1回は外来診療を続けている。「現場の感覚を失いたくない」という理由からだ。患者を前にして生まれる問いや気づきは、データだけを見ていては得られない。最終的に研究の成果を患者に還元するためには、現場との接点を保ち続けることが不可欠だという思いに加え、「医師であり続けたい」というこだわりも、その背景にある。
高ベネフィットアプローチを社会に根付かせたい
井上の長期的な目標は、高ベネフィットアプローチを医療と公衆衛生の新たな戦略として広く浸透させることだ。
その課題として井上が挙げるのは、予防や健康増進の領域におけるエビデンスの希薄さだ。医薬品の承認には厳格な根拠が求められる一方で、健康アプリやサプリメントなどは、科学的な検証が十分でないまま広く普及しているものが少なくない。医薬品と同様に、何が本当に効果をもたらすのか、誰にとって効果があるのかを検証していくことが課題だと井上は言う。
高ベネフィットアプローチとはどういう発想か。身近な例で言えば、アマゾン(Amazon)が個人の閲覧・購買履歴に基づいてレコメンデーションを出す仕組みと構造が似ている。その人に最も効果がある提案をパーソナライズするという発想だ。ただし、医療は命や健康に直接かかわるため、その応用には特に慎重さが求められる。高い精度や妥当性を確保しながら、丁寧に進めていくことが重要となる。
医療現場や政策立案者への働きかけが中心になるが、「この考え方は一般の人々の日常にも届いてほしい」と井上は言う。2026年5月には一般向けの書籍の刊行も予定している。個人が自分に最も効果的な選択を取れるようになることが、医療費の効率的な利用や健康格差の是正につながり、ひいては社会全体の健康水準を底上げする。井上はその実現に向けて、着実に歩を進めている。
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この連載ではInnovators Under 35 Japan選出者の「その後」の活動を紹介します。バックナンバーはこちら。
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- 畑邊 康浩 [Yasuhiro Hatabe]日本版 寄稿者
- フリーランスの編集者・ライター。語学系出版社で就職・転職ガイドブックの編集、社内SEを経験。その後人材サービス会社で転職情報サイトの編集に従事。2016年1月からフリー。