KADOKAWA Technology Review
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ES細胞ブームから25年、
「究極の治療」の現在
STEVE GSCHMEISSNER/SCIENCE PHOTO LIBRARY
生物工学/医療 Insider Online限定
After 25 years of hype, embryonic stem cells are still waiting for their moment

ES細胞ブームから25年、
「究極の治療」の現在

25年前にヒト胚から初めて単離された胚性幹細胞(ES細胞)は当時、医療への応用で輝かしい展望が指摘されていた。だが今に至るまで、まだ治療法として確立されたものはない。 by Antonio Regalado2023.09.14

25年前の1998年、ウィスコンシン大学の研究者らはヒト胚から強力な幹細胞を分離した。それは生物学における抜本的なブレイクスルーだった。というのも、この胚性幹細胞(ES細胞)はヒトの身体の起点であり、心臓細胞や神経細胞、その他どんな細胞にも分化できるからだ。

ナショナル・ジオグラフィックス誌はのちに、胚性幹細胞が約束する驚異的な展望について、「病んだ臓器や組織を、代わりとなる生体で入れ替えて修復を可能にする医療革命を起こすこと、それが胚性幹細胞による治療の夢である」とまとめた。それは新しい時代の幕開けだった。究極の理想の実現である——。お決まりの宣伝文句がメディアの見出しを飾った。

それから20年以上が過ぎた現在、胚性幹細胞を使用した治療法はいまだに市場に出回っていない。ただのひとつも、である。

どうなっているのか探るため、私は今年6月、国際幹細胞学会(ISSCR)年次会合の最前列の席を入手し、会場のホールで数百人の科学者たちとともに会議に参加した。巨大なスクリーンに映し出されたのは、ややおどろおどろしい、白黒の細胞の顕微鏡画像だ。いくつかの細胞は丸く、毛のようなものが生えていて手探りのような動きをし、またいくつかは砂のように見える謎めいた物質で満たされた、長方形の断面図だった。ステージからは、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの 「I Want a New Drug(新しいクスリが欲しい)」がテーマ曲として流れていた。

この会合で私は、過去に取材した人たちと会う機会があった。うち一部の科学者は文字通り、四半世紀という年月や大変な努力を重ねた末に老けて、学長や顧問になっていた。私はこう尋ねた。25年が経過した今もなお時間が刻々と過ぎているが、それはこの自慢の技術について普通に想定される時間なのか、それとも何らかの間違いがあるのか。私が話を聞いたほとんどの人は、この苦い遅れは特に驚くべきことではないと答えた。真に斬新な技術の開発には、それほど時間がかかるのだ。ヒトに対する初めての遺伝子療法の実験は1980年に実施されたが、初の遺伝子治療薬の販売が欧州で承認されたのは2012年のことだ。このような尺度で見れば、幹細胞治療は着実に進展しているといえる。

幹細胞を医療に取り入れるのは驚くほど困難であることが分かったと認めた人もいた。幹細胞の根本的な課題は、アスピリンなどの大量生産可能な薬剤とは異なるという点だ。幹細胞は生き物なので、変化したり、死んだり、制御不可能となってがんなどの危険を生じたりする可能性もある。この説明によれば、胚性幹細胞を採取すること自体は簡単だ。難しいのは、疾患を治療するのに必要な特定の機能を持つ特異性細胞へと分化させることだった。

「アイデアの実現には時間がかかりますが、それでもアイデア自体は正しいものです」。学会の演壇に立った際に私が質問したスタンフォード大学のマシュー・ポーティウス教授はこう述べた。

幹細胞治療がついにブレイクしそうな兆しも見えている。2023年の調査によれば、過去4年間で志願者を対象とした新規試験は約70件実施され、以前の3倍のペースとなった。ヒトを対象としたこのような初期の試験のひとつをバーテックス・ファーマシューティカルズ(Vertex Pharmaceuticals)が実施している。同社は6月に、研究室で作られた人工膵臓細胞を注射した2人の糖尿病患者について、今後のインスリン投与が不要となったと発表した。失明やてんかんの治療用に作製された細胞の試験では、移植細胞が役立っていることを示唆する初期結果が出ている。

「多くのことが、直前の状態にあります」と、国際幹細胞学会の元会長であるイェール大学のハイファン・リン教授は言う。「遅れているとは思っていません。幹細胞はすべての細胞の中でも真に最も複雑なものですから」。

「白紙状態」

私は胚性幹細胞について当初から、いやそれよりも少し前から取材を続けてきた。MITテクノロジーレビューでは中絶反対活動家たちの反対という差し迫った脅威のもと、胚性幹細胞の単離を探求する記事を発表した。「バイオテクノロジーのタブー」という見出しを掲げた1998年7・8月号の表紙は、暗闇の中で光るペトリ皿の写真で雰囲気を醸し出している。

「もし、人々の興味を最もそそり、物議を醸し、秘密裏に実施されている科学的研究に賞が与えられるとしたら、胚性幹細胞の研究がそのカテゴリーを席巻するだろう」と、私は記した。これは白紙の細胞、つまり人体のどんな細胞も作れる細胞を求める研究なのだ、と。胚性幹細胞は、科学者が「ヒト組織を意のままに育てること」を初めて可能とする、いわば「ペトリ皿上の工場」となるものだった。これがタブーとなったのは、胚性幹細胞が初期のヒト胚にのみ存在するものだったからだ。初期ヒト胚は体外受精クリニックから入手できるものだが、細胞を分離するために胚を破壊しなければならない。

本誌が記事で報じた数カ月後、この科学レースは結末を迎えた。同年11月、ウィスコンシン大学のジェームズ・トムソン教授が5つのヒト胚から幹細胞を取り出し、研究室で生存・増殖させていることを発表したのだ。

サイエンス誌に掲載されたトムソン教授の論文は3ページの簡潔なものだが、そこには幹細胞がどのようにして医療技術になるのか、彼の考えの概要が含まれていた。 死者から提供される臓器や細胞が不足する中、同教授は、幹細胞は、特に鼓動する心臓細胞やグルコース感知ベータ細胞などの特殊なタイプの細胞の「作り方の標準化」を可能にすることによって、「創薬および移植医療に利用される細胞の、潜在的に無限の供給源となるだろう」と予測した。トムソン教授は一部の病気、特に1型糖尿病およびパーキンソン病は、「わずか1個か数個の細胞型の死や機能不全」から起こると指摘した。

こうした特定の細胞を入れ替えることができたら、それは「一生涯の治療」となることを意味する。

すべての細胞の母となる細胞が、どんな組織も置き換えられる、はたまた臓器を育てることすら可能にするというビジョンは、ある世代の研究者らに衝撃を与えた。「私が今まで見てきたものの中で、最も魔法に近いものでした。これは、分裂を続けて何でも作れる細胞なのです。あなたが細胞生物学者であれば、それこそが究極の目標でしょう」。スクリップス研究所(Scripps Research Institute)の名誉教授であり、ドーパミンを作り出す細胞の移植によるパーキンソン病治療を計画している企業、アスペン・ニューロサイエンス(Aspen Neuroscience)の共同創業者でもあるジャンヌ・ローリングは言う。「求める特定の細胞型にどのように分化させるのか、それが問題です」。さらには、もし幹細胞の人工培養が認可された場合、突然変異を起こしてがんのリスクが生じるおそれがある。「それがこの魔法のダークな一面なのです」。

政治的な試練

幹細胞という概念は、まもなく決定的な試練に直面することになる。しかし、それは科学的ではなく政治的な試練だった。幹細胞は、微小ながらも生きた体外受精胚から抽出するものであり、その過程で胚は破壊される。そのため、この発見はカトリック教会などの米国内の宗教団体の激しい怒りを招いた。

トムソン教授の論文から2年後、ジョージ・W・ブッシュが大統領に選出された。それによりホ …

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